えひめこどもの城にみる親子共生の風景

見えない学力

学力には、テストで実測可能な「見える学力」と、興味・関心・やる気・集中力など・・の「見えない学力」の両面があることに留意すべきです。とりわけ心の育ちや、生き抜く力そのものの後者の部分が大きいほど、「見える学力」は高くなるとされます。ゆえに幼児期で避けて通れない関門は、豊かな遊び体験を通して「見えない学力」をどのように培うかにかかります。

1.「無駄の効用」 ~雑学の強さ~〈竹林〉

今日は「みどりの日」。どこまでも澄みきった青空。ただ、ただ新緑の鮮やかさのみが目に飛びこんで参ります。竹林を渡る微風には、花鳥風月の匂いがムンムンと漂っています。それを胸一杯に吸い込みますと、心身共にさわやかになってきます。自然からの貴重な贈りものとは、こんな癒しのことを言うのでしょうか。未来永劫にわたって大事にしたいものです。

約35haの敷地をカバーする園内放送が、今日のイベント「筍(たけのこ)掘り」への参加を呼びかけています。歩くだけでも大変な急斜面で親子がいっしょに汗を流しながら、1つの作業を共有しようというのです。もちろんこの企画は、適切な竹林を所有しないと実現出来ません。それだけに本園は自らが背負う責任として、今では容易に体現できない生活や暮らしぶりを、わざわざ意図的に再現しようとするのです。

筍掘りもその活動の一環ですが、なかなかどうしてこれは重労働です。筍の地上部分を見つけるだけでも一苦労ですが、地中には堅い根っこが縦横に広がっています。これを重い鍬で20センチほど掘り出し、根元部分だけをねらってうまく切り取らなければならないのです。しかし本日の軍団では、この作業に成功する人は皆無のようです。みずみずしくて最も歯ざわりのよい部分を、わざわざ叩き切ってしまうのが落ちです。

しかしよく考えてみますと、私たちの生活には筍堀りと同様に、失敗してあたりまえのことがたくさんあります。ただ人間が偉いところは、そうした失敗体験にどう向き合うかを学ぶことです。生きぬく力としての知識・技能には、日常生活の生々しい雑学の中で、はじめて身につく側面があることを忘れてはなりません。速い話が筍は一晩に10センチも伸び、10日間で竹になってしまうとの知見も、机上の耳学問だけに終わらない具体的体験に支えられて、本当に掌握できるわけです。このことは「無駄の効用」とでも呼べるものですが、いわゆるペーパーテストが対象とする学力ではありません。

最近の学力論議では「総合的な学習の時間」が批判されているようです。だが錯覚してはなりません。全国学力調査でも、「正しく朝食をとり、登校前に持ち物を確かめる子は、成績がよい傾向にある」と報告されました。これは幼児期からの生活習慣の問題です。が、この時期での点数化できない「目に見えない学力」の育ちが、やがて学校教育全体の学力をも決定することになりかねません。えひめこどもの城での体験学習は、そのことの重大さを実証するためにも用意されているのです。

平成17年8月1日

2.「手に仕事を、頭に思考を」 ~だったら、全部やってよ~〈創作工房〉

花の丘ゾーンの東屋で、お母さんが仲良く並んでカンバスに向かっておられます。絵筆を走らす後ろ姿には、すでに一段落を遂げた子育てへの安堵感がにじみ出ているようです。その穏やかな表情と雰囲気は、まさに親は親・子は子としての母子分離の到達点を、「一幅の絵」のように描き出しております。

続いて創作工房に入りますと、ここでは親子が共同で粘土をこねながら、「てがた」の原型を懸命に仕上げています。これは後日、成長の記録としても保護者からなかなかの好評を博しているようです。しかし子どもたちは出来上がった作品よりも、やわらかい粘土の手触りや、手加減の具合で容易に変わる形そのものに、興味が駆りたてられている様子です。とりわけ3歳時期からは、自分で考え自分の手で造ったモノは、宝物のように大事に取り扱い始めます。これは手に仕事を頭に思考をとする、体験学習の願いからしてもすばらしいことです。

ところで先ほどまで、あれほどに饒(じょう)舌だったお母さんがたの口数が急に少なくなりました。何とかして後世に残る記念品を創ろうとの気負いが、いつの間にか楽しい親子の会話を退け、お母さん独りだけの手作業を呼び込んでしまったのです。当然のことながら、子どもたちは「面白くない。だったら、お母さんが全部やってよ」と叫んでいるようです。ここでの子どもの本音は、お母さんといっしょに作業をする中で、懸命にがんばる自分を偉い偉いと認め、ほめてもらえるところにあるのです。それだけにすべての子どもたちは、そのような賛辞を原動力としながら、さらにやる気や自立心を奮い立たせていることを見落としてはなりません。

しかも一つのモノを作り出す喜びは、出来上がった結果よりも、それをつくる過程そのものを楽しむ中にあるのです。そのためにも賢明な関与者は、子どもからの内発的なニーズに見合うサービスの仕方と、それがおせっかいにならない一線を、即断即決の判断で決定しているわけです。しかしその実践は安易なものではありません。それは今日の子どもたちの多くが、最初から自分には無理だ、出来ないとの限界を簡単につくり出す傾向があることからも明白です。いわゆる「やる気のない子」が生まれる要因の大半は、子どもが何をするにしても、必ず自分でレールを敷いてやらないと気が休まらない、親の罪によるものなのです。

えひめこどもの城での遊び体験は、親自身が「あまり教え過ぎないこと」を会得するたもにもあるのです。そのために私どもは、まず子どもからの積極的なやる気の発動を、歯を食いしばって、ただひたすらに待つことができなければなりません。 

平成17年6月1日

3.「鳩の糞(ふん)害」 ~親は無くとも子は育つ~〈光の塔〉

「光の塔」の中に、鳩がいつの間にか巣をつくりました。当初の私たちは、この出来事を「鳩と人の共生の風景」として歓んでおりました。ところが鳩がたれ流す糞(ふん)の悪臭と共に、塔のプリズムガラスが反射しなくなってしまったのです。こんな不都合が生じますと、人間本位の考え方から「巣の保護よりも排除」の原理が、必然的に優先することになります。

対策の基本は単純明解。外界から巣への通路を遮断することです。だがこれは予想以上の難事業でした。関係者は汗だくになって、高い塔内にナイロン糸やネットを張り巡らし、有刺鉄線で巣の入り口を封鎖しました。これはまさに鳩対人間の知恵くらべ、闘いでした。うまく排除できたと安心していても、翌日になると、鳩は泰然と巣に鎮座していたわけです。

ことわるまでもなくこの遮断措置は、卵の孵(ふ)化をも完全に阻止します。それだけに作業を始めて数日後、窓枠裏でグロテスクな体肉むき出しのヒナを、四匹も発見したときはさすがにショックでした。小さな命の痛々しさは、親子のきずなの重みを呼び覚ますのに十分なものでした。ここで親子を強制的に引き離すことは、ヒナがたちどころに死んでしまうことを意味します。このことは動物の中でも最も長い間、親からの手厚い庇護を必要とする人の赤ん坊についても言えます。

もともと私ども人間は、天性のやさしさとして弱いものへのいたわりの心、「判官(ほうがん)びいき」を具備しているのでしょうか。本園・スタッフ一同の心情も全く同じです。早速に寝床らしい場所をしつらえ、せっせと水や殻類を与えながら親鳥の代役をつとめられました。私はそんな様態を横目にしながら、目を閉じたまま少しも動こうとしないヒナ鳥の酸鼻(さんぴ)さを、「あと何日の命?」と冷めた気持ちで眺めておりました。

風前のともし火と同様の命は、それでも3日めにエサをついばみ水を飲み、そして7日めには立って歩こうとしたのです。いわゆる人の1年の成長過程を、ヒナたちは7日間でやってのけるわけです。さらに続く「バタバタ行動」は、24日めの飛び立ち(巣立ち)への準備運動でもありました。自然界の摂理とは、誠にもって深遠です。しかし私が感嘆絶句する感動は、ここでのヒナ鳥は親鳥からの保護や世話を全く欠如したまま、自分で自分の発達課題を遂行したことにあります。まさしく「親は無くとも子は育つ」のです。この冷徹な哲理に向けて、えひめこどもの城の遊び体験は「保護と突き放し」の使い分けの重大さと、その必要性を厳しく告発していることを忘れてはなりません。

平成17年12月1日

4.合計特殊出生率 ~兄弟は他人の始まり?~〈ボールプール〉

ボールプールめがけて、お顔なじみの兄弟(4歳・2歳)が飛びこんできました。2歳年上の兄は常に優等生、弟は甘えん坊タイプです。疾風怒濤(とう)の2人の動きには、いつも圧倒されてしまいます。弟が投げつけるボールの速さは、今日はまた格別なようです。例によって兄弟喧嘩が始まりました。先客への配慮でしょうか、ママからはきびしい叱責の声が飛ぶのも無理はありません。

そんな修羅場に、同じ年齢の男児を同伴する家族が、次から次へと集まってきました。「4家族・同年齢・兄と弟・8名」のそろい踏みは、本プールでも初体験です。ここでの喧嘩は、間違いなく兄弟から始まります。それが次第に友だちの間に広がります。抗争中に、まず悲鳴を上げるのは弟、母親に救援を求めるのもまた弟たちです。もちろんこの体力差による順位は、弟が3歳代になると明白に変化します。

一般的に親の立場としては、1日も早く「仲のよい兄弟」になって欲しいと願います。それゆえに親の権威をかけて兄弟喧嘩を抑制します。しかし子どもは喧嘩の中で感情をぶつけ合い、社会性や対人関係のあり方を学んでいるのです。喧嘩さえできない良い子の方こそ、むしろ危ないのです。後日、共感や思いやりの心を欠如したまま、新聞紙上をにぎわす悲劇を引き起こすこともしばしばです。

ところで最近の合計特殊出生率では、夫婦2人から産まれる子どもの数は、限りなく1人に近づきました。諸々の子育て支援策も懸命に模索されてはいますが、特効薬となる対処策は皆無です。このことは、人とのかかわりの原点(兄弟喧嘩)の復活が、今後ともさらに困難になることを意味しています。

こんな私の兄弟喧嘩待望論に、お母さん方は「我が家の障子には、紙はおろか骨組みさえも残っていない」「喧嘩ばかりで、結局は他人になってしまう・・・」と、いつも笑顔で気長く応えて下さいます。けれどもその目は、やはりご心痛そのもののようです。
とまれ、こどもの城での兄弟喧嘩は、私たち大人に「叱る時・場面・叱り方」の検討の重大さを、赤裸々に語りかけていることを忘れてはなりません。

平成17年10月1日

5.「一緒に遊ぶ人」 ~お別れじょうず~〈児童館周辺〉

こどもの城はジョロウクモ、ムカデ、スズメバチ、カメムシ、ゴキブリ、シロアリ、トンボ、カラス、セミなどの楽園です。今年は自然界のいたずらなのでしょうか?これらの生きものは膨大な数になりました。とりわけスズメバチ針の毒性は強烈ですが、児童館横のイノシシの出没にも、驚嘆、絶句してしまいました。

まず最初の危惧は、「子どもの後ろには、まちがいなく親がいる」ということでした。捨て身でわが子を守る親は、文字通り猪突猛進できわめて危険です。しかし外敵の恐さを知らない子どもたちは、短いしっぽをふりふり愛想よく私たちの方にやってきました。この天真らん満さは、幼い子のみへの神様からの贈り物なのでしょうか。ところでどんな事情があったのか、親たちは最後まで姿をみせませんでした。

イノシシの世界にも「養育放棄」があるのかと、苦笑しながら部屋に帰りPC画面に目をやりますと、偶然、教育研究開発センター「幼児の生活アンケート(国内調査)」速報版が飛びこんできました。ここでの〔乳幼児の生活の様子、保護者の子育てに関する意識と実態〕は、過去10年間の変化を把握する上でも貴重なデーターです。次年度は東アジア調査も刊行される予定なので楽しみなことです。ここでは調査の1項目、「一緒に遊ぶ人」のみを引用しておきましょう。

〔幼稚園や保育園以外での子どもが一緒に遊ぶ人についてたずねたところ、(きょうだい)(ともだち)が10年間で10.0ポイント程度減少しているのに対し、(母親)が25.8ポイント増加して80.9%となった。さらに、さまざまなメディアの利用について、おもに誰と一緒に使うかを聞いた項目でも同様の傾向が表れている〕

少子化の現代社会では、「ぴったりくっついたまま、離れられない」とする、母子一体感にはさらに拍車がかかっているようです。それだけに本調査の約3分の1が、4歳・5歳・6歳児であることが、とても気にかかります。なぜなら「一緒に遊ぶ人」の真価は、適切な時期に離れる、母子分離のあり方によって決定されるからです。

以下の例え話に、私は本気です。昔日より「シシはわが子を、千尋の谷に突き落とす」があります。これは「自立(律)への旅立ち」の意義をも指摘すると考えられます。だとすると木陰で一定の距離を保ちながら、子どもたちの危険回避力を見つめた親イノシシこそは、えひめこどもの城の体験・経験至上主義の願いを、人間よりも確実に実践していると言えるのではないでしょうか。

平成18年2月1日

6.「これから、児童館は」 ~駆け込み寺~〈遊歩道〉

今朝の気温は氷点下。にもかかわらず遊歩道に立つ人たちの話し声は、お元気そのものです。それぞれの人はそれぞれに、「年金」と「畑の大根」と「かわいい孫」の話に夢中です。相手を特定せずに自分の思いだけを一方的にしゃべる、話の前後には何の脈絡もありません。加えて方言も飛び出しますから、私が理解できる内容は半分程度です。それでも不思議なことに、仲間うちでは話がうまく伝わっているようです。

ここでは日本語としての言語的な正しさよりも、今までに蓄積した人と人との関係の深さが、互いの気持ちや心をよりよく伝えているのです。これこそ「生きて働くコミュニケーション」だと、私は思わず膝(ひざ)をたたきました。生涯、同じ土地で暮し続ける竹馬の友たちは、この地のみに根づ<無形文化財、自分たちの心の「駆け込み寺」を創っておられるのです。

現在、全国で約4600余。県内では42か所に、今までの家庭や学校とは全く異なる暮しの場として、新しく児童館が設置されております。当然、この施設は地域のこどもと大人が1つ団子になりきる安全基地、心の「駆け込み寺」になって欲しいと願わずにはおられません。そのためにもここでは児童館、公民館や学校の先生以外の人たちによる異世代交流が、もっともっと真剣に検討されるべきではないでしようか。

次から次へと、こどもたちが殺害されるいたましい事件が続発しています。そして世の多<の人々は、自分のこどもがいつ被害者になるかも知れない不安の中で、現実の子育てや教育の実態を見つめておられるのです。県内でも最近、学校の危機管理や放課後対策、不審者目撃情報、子ども見守り隊など、いろいろな安全対策が講じられ始めました。しかし荒廃、疲弊しきった人心の回復は容易ではありません。

毎年、東・中・南予の児童館(センター)を訪問しつつ、そこでの独自性に学んでおります。もちろん私の関心は人と人との絆(きずな)にあります。或るおばあさんは縁側で日向ぼっこをしながら、下校時間の「こどもの安全見守り」活動に参加していると話してくれました。ここには「他人のこどもでも、叱ってあげる」、すばらしい援助者がいらっしゃるわけです。点在する児童館の最大使命も、こうした異世代交流と地域密着型活動の推進にあります。これはスマートでなくて結構です。どろどろと泥臭い人間の「駆け込み寺」機能を、現代社会を起死回生させる妙手として、どれほどに温存できるかの問題です。えひめこどもの城が存立する意義の1つは、かかってここにあることは言うまでもありません。

平成18年4月1日