えひめこどもの城にみる親子共生の風景

自立への旅立ち

幼児期後半の発達課題の1つは、「母子分離」がうまくできることです。これは今までのぴったりくっついた親子の関係に、適切な間合いを置くことを意味します。そのためには「温かく保護する」と「冷たく突き放す」との、一見、背反する関わり方が不可欠になります。特に後者への比重のかけ方で、幼児期での精神活動、自立の育ちは半ば決定されてしまうのです。

1.中央分離帯 ~探索・好奇心~〈松山側駐車場の階段〉

ここの階段・中央部には、上りと下りを分離するために帯状の傾斜がつけられています。これはコンクリート製ですから、滑り具合はあまり滑らかではありません。ところがそんなことにはおかまいなしに子どもたちの多くは、何がなんでもここを滑降して駐車場に行こうとするのです。当然ちょっとしたスリ傷や、切り傷ができることはめずらしくありません。

その様態に神経質なママたちからは、「怪我するよ”危ないからやめなさい”」との非難が飛び出します。時に、「パンツが破れても、絶対に買わないからね」との怒声も聞こえます。けれども子どもたちは、大人に「ダメ、イケナイ」と叱責されればされるほど、その遊びがかえって面白くなるのです。「親の言う通りには、絶対やらない・・・」。その主役は男女の別なく、やはり三歳時期を節目とするようです。

いわゆるこの年代は、親から教えられた知識・技能以外に、「何だろう?どうなるのだろう?」との好奇心や探索心を駆り立てる時期なのです。すなわち自分の頭の中で「こうすれば、こうなるだろう」との結果が、あらまし予測でき始めたのです。それゆえに階段は歩かず、自分なりの知識や経験に照らして滑降してみるのです。よく考えてみますとこの子たちは、親の言うことが聞けない「困った子」ではなく、まわりとのかかわりに積極性を持った「良い子」なのです。子育てや教育の具体では、このように大人の要求と子どもの思いが、うまく合致しない場面が数多くあります。だがそれは子どもの罪ではなく、こここそ体験学習の絶好の機会と考えるべきです。

今、まさに分離帯を滑降しようとする男児の足元では、一匹のみみずが断末魔の苦しみにのたうっています。群がる蟻に体液を吸い取られているのです。まわりには干物と化したみみずの死骸が散乱しています。ことほどさように、命の終焉(えん)には殺伐さが滞うものです。その光景を見咎めたママは、思わず「そんな汚いものを見ては、ダメ」と絶叫します。これも本来的にやさしさを担う、親心の発露なのでしょうか。

しかしそうした思い以上に、私は子どもの次のつぶやきに、背筋が震えるような共感を覚えるのです。「ウーン。みみずの頭はいったいどちらなの?なかなかわからへん」。この五歳児は自分の前頭葉、自分のことば(内言)を通して、みみずの骸を見つめているのです。この生きざまは大人からの教えにすがりつく、「指示待ちの子」では実現不可能です。えひめこどもの城が期待する子ども像も、かかってここにあるのです。

平成16年12月1日

2.花落ちて、花開く ~感性の育ちこそ~〈通谷池周辺〉

通谷池全体をピンク色に染めた絢爛(けんらん)豪華の桜花は、春一番の到来と共に葉桜に変わってしまいました。一夜のうちにパッと咲いてパッと散る、この花の「いさぎよさ、はかなさ」は、昔日より百花の象徴として賞賛され続けてきました。それゆえにこの地区周辺での画竜(りょう)点睛も、やはり桜花に求められるべきでしょう。さくらの小径のデッキから、さくら並木と水面(みなも)に浮かぶ花びらやボートを眺めておりますと、心も身体も癒されるように感じます。

すべての養育者の子育て過程では、「子どもが思い通りにならない、予期したように育たない」とするイライラ気分はめずらしくありません。そんな時には、ここで胸いっぱいの深呼吸をすることをお勧めいたします。そして脈絡がなくても結構ですから、無心の境地で「ダイスキ・ダイスキ」「三億円・三億円」などと、思いつきのコトバをお念仏のように唱えてみて下さい。いらだつ自分自身の心の中に、何らかの余裕が浮かべば拍手喝采。結果的には、子どもの良い面が見えてくること必定です。当然のことですが、大人の心に余裕ができると子どもの心にも余裕が生まれ、指示される事柄も素直に受容し理解できるわけです。

こうした共生・共存的な親子関係の基礎作りは、人生当初の3歳児期を中心とする幼児期に横たわっております。ここでの子どもたちの急激な発達変容に見入れば見入るほど、ただ驚愕と敬服の念ばかりがつのります。だとしてもこの時期の子どもにとっては、さきほどの文中で使用した「いさぎよさ、はかなさ」などの、抽象的なコトバが把握できるかどうかはあまり意味をもちません。

それよりも目の前の桜の花を見て美しいと思い、その木の下でみんなといっしょに食べるお弁当の、おいしさを感じ取ることの方がずっとずっと大切です。すなわち幼児期の学習の基本は、生活体験の中で美しいものを美しい、好きなことを好きと把握できる感性の育ちにあるのです。

約30年前のわが国での「おちこぼれ」対策は、つづく「ゆとりの教育」「基礎基本の見直し」「教科内容の最低基準」論議の曲折を経て、今、「ゆとり路線から学力重視への方向転換」をはかろうとしています。これでは、また詰め込み教育が復活しないかと心配です。学童期に関する教育政策がぐらつけばぐらつくほど、幼児期での保育がさらにきびしく三思再考されるべきです。このことへの応答を、えひめこどもの城は遊び体験を通しての感性の育ちにかけているのです。

平成16年6月1日

3.落葉帰根 ~植物の育ちと子育て~〈四季の森〉

「分け入っても分け入っても青い山」。山頭火の一句です。砥部の里の木々の緑は、梅雨から初夏にかけてが最も生き生きとしています。ここで五感をそばだてていますと、植物育ての中に、子育ての原点が横たわることに気づきます。

独自性の価値

花にはそれぞれの美しさがあり、風に吹かれる数百種の樹木にも数百通りの揺れがあります。子育てにおいてもその子の「独自性」、その子なりの「個性」を最大限に尊重したいものです。それを具体化するためには、見返りを期待しない「無償の愛」が不可欠となります。

保護と突き放し

植物育ての名人は対象を「カワイイ・カワイイ」と慈しみながらも、一方では冷静に突き放しの時期を見きわめているのです。ここでの判断を誤りますと植物は育ちません。幼児期でのその時期は、まず三歳時期を中心とする課題にあるのではないでしょうか。

内なる力

植物を育てる要諦(てい)は、土地を耕し肥料を与え下地を整えながら、根気強く水やりを続けることです。ここまでの手続きで、世話する者の仕事の大半は終わりです。子育てでは子どもからの内なる力の発動を信じて、「ひたすらに待つ」ことが大切な努めとなります。

雑草のような強さ

抜いても抜いても、また生えてくるのが雑草のたくましさです。それだけに除草作業での汗の量によって、苗木の育ち具合は決まるのです。だが現代の社会や学校においては、世話する側と世話される側ともに、雑草が持つ強さや忍耐力を培う方途が不明のままなのです。

落葉根に帰る

鬱蒼(うっそう)とした大樹の根もとでは、落葉や枯れ木がまさに朽ち果てようとしています。親は自らの終焉(えん)の全てをかけながら、子どもに必要な養分や水分を懸命に残そうとしているのです。その輪廻(ね)の厳粛さには、ただ頭が下がるのみです。

植物育ちの主人公は、あくまでも世話される側の植物そのものなのです。それゆえに世話する者は徹頭徹尾、脇役の立場に徹しきるべきです。このことは人間の世界でも全く同じです。もともと子どもは親や教師が教え得ない欠落部分を、自分なりの力で補う「自己教育力」を持っているのです。子ども(主人公)のそうした天性を支えるのが、発達援助・支援教育と呼ばれるものなのです。こうした立場からも自然主義教育の創始者、ルソーの「子どもは自然に帰れ」との指摘は至言です。遊び体験の場、えひめこどもの城が存立する意義もかかってここにあるのです。

平成16年8月1日

4.恐怖心 ~泣かせると喜ばれる~

真っ暗闇のテントの中からお化けや幽霊の叫び声、不気味な振動音が聞こえてきます。それに子どもたちの悲鳴や泣き声がこだまします。出口から出て来た4歳ぐらいの男の子は、ママの胸にしゃにむにしがみついたまま絶句、放心状態です。そうした様態をちらりとうわ目で伺うだけで、子どもたちの恐怖心はいやが上にも高まります。これは人間としても当然のことであって、恐れの気持ち自身がよいとか悪いとかというものではありません。

お化け屋敷の使命は「子どもをしっかり泣かせると、保護者がニコニコ笑って下さる」、誠に奇妙きてれつな大義にあります。そのためには全知全能を傾けて、とるに足らぬほどの空間といえどもそれなりに、「恐怖の館」を現出しなければなりません。幽霊マスクで汗びっしょりのスタッフは息をはずませ、熱っぽく、お化け屋敷が成功するコツを語ってくれました。話の内容には、真っ暗がり、光の点滅、懐中電灯、色や形、効果音、四感覚(視・聴・触・臭)、ゴムマスク、風の音、などのキーワードが含まれていました。

そして子どもの恐怖心の大半は、

  • これらの小道具をどう使いこなすかによって決まる
  • お化けが出現する場所や位置は、真正面よりも横や背後からが効果的
  • 広い通路や空間よりも、至近距離での動きに恐怖心は倍加する
  • 予期していない意外性をうまく演出する。

「泣かせのプロ」たちのこうした確認は、汗みどろであるだけに強い説得力を秘めています。

もともと人間の恐れの情緒は生後6か月頃に分化しはじめ、その対象は年齢にしたがって大きく変容するとされます。おもしろいことにお化け屋敷での子どもの反応も、1・2歳頃までは平気の平佐ですが、3・4歳頃からは暗闇やお化け、想像上の生物(妖怪)を対象とするものが急激に増加します。すなわちこの年代において「恐いモノは、よけいに見てみたい」とする、背反する心の揺れが本格化してくるわけです。これは第1反抗期における精神構造の特質、「・・・だけれども・・・したい」との心情にあたるとも言えるでしょう。ところが7歳時期以後はニコニコしながら、しかも徒党を組んでお化けのお相手ができるようになるのです。

遊びの体験の場、えひめこどもの城は「具体から抽象へ」の発達指標を、感性豊かに体得するために用意されたものです。そのための一里塚として、お化け屋敷も存在するわけです

平成16年10月1日

5.今、ここに ~17分間の会話~〈カリヨンモニュメント〉

「あいあい児童館」前。カリヨンモニュメント・ベルそれぞれの音色は、一つのメロディーにまとまると快い音楽となります。それでも私の音感力では、曲名の判定は無理な相談です。ただこの程度の聞き分けの力であっても、生活そのものに支障はありません。加えて聴覚の機能には、「聞こうとして聞かない限り、聞こえない」不思議な側面もあります。それゆえにカリヨンのメロディーは、人によって聞こえたり聞こえなかったりするわけです。

午後5時。モニュメントが「お別れの曲」を奏でます。その下で2歳代の男児が仰向けにひっくり返り、「もっと遊ぶ”もっと遊ぶ”」と絶叫しています。無理もありません。2歳児は「この世は自分の思い通りになる」と信じているからです。当然、別れの曲やご両親の叱責などは、聞こえるはずもありません。それが3歳代になると、「思い通りにならなかったら、じっと辛抱する」ことができ始めるのです。このわずか1年の時間差は、生涯にわたる課題に連続しながら、きわめて大きな意味を持っています。

人間の発達に関して、「遺伝と環境」のどちらの影響が大きいかの論争は、長期にわたり繰り返されてきました。それでも「発達とは一定の時間経過にそって、身体や心の機能を変化させる過程である」との観点は不変です。なお幼児の時間観念は、目の前に見えない「過去・未来」よりも、現在の「今・ここに」が中心であることを見落としてはなりません。子ども自身が目を輝かして、今の時々刻々をイキイキと生き切っているかどうかで、人としての成長や成熟の大半は決まってしまうわけです。

ところで最近少し気になる新聞記事に接しました。
「現代人は電話よりメールを使う。人の顔を見ていない。インターネットで、世界の隅々と24時間つながる一方、身近な人との17分間の会話がままならない。21世紀の孤独。もちろん、私もその中の1人なのだ」

17分間とは、1日の会話の総時間数なのです。相手の表情や身振りを見て、声を聞き、話の内容を理解し、自分の意見を表現する。人間同士の最も生々しいかかわり時間が、ほんのわずかにこれだけというのです。これは子どもの人間形成上に、致命的な影を落とすこと必定です。このたったの17分間を1分でも長くする悲願の下に、えひめこどもの城は用意されたものに他ならないのです。

平成17年2月1日

6.心って? ~人と人との関係の問題~〈周遊園路〉

周遊園路のスタート地点から歩き始めて、みずべのレストラン前を過ぎますと、さくらの小径とミニSL線路が平行して伸びる3車線になります。ここでロードトレインの子どもたちに手を振りますと、みんなにこにこしながら応えてくれます。まさしく心とは目に見えないものではなくて、「人と人との関係の中」にあることを教えられる一コマです。

今日は本県の肢体不自由児養護学校と香川県某小学校の交流活動、遠足の日です。からだが不自由なお友だち30名の車いすと、24人の小学生、40人の介助者が1つの団子のようになって、約2kmの園路を歩いて周るのです。県境を越えるこの交流活動は、今回で通算6回目になります。可能な限りのバリアフリーとトイレの配置に留意した本園も、こうした壮挙に心からの声援をお送りする次第です。

ところで世話される人と世話する人、約百人の本集団には、一見するところ独特の雰囲気が漂うように感じられます。しかしその内実には、容易ならない想念が秘められているのです。すなわち関係者はこの世に生きる人間同士として、冷酷きわまりない障害事実を真正面に見据えつつ、「今、自分には何ができ、どのように相手に接するか」を、真剣に感じ合っておられるわけです。これこそ、その荒廃ぶりが指摘されて久しい、「思いやりの心」そのものに他ならないのです。

両校の事後収録には、養護学校生徒の歩くことに対する切実な願望、それへの健常児の感想文が載っています。「ぼくの夢は、杖をついてでも、自分の足で歩くことです。自己紹介で、そんなことを言った人がいました。私はその夢を聞いて”えっ”と思いました。私にとって自分の足で歩くことは、当たり前のことだったからです。でもその人は、車いすで生活しているお兄さんでした」「・・・杖で歩くことが夢なんて驚いた。そんなことだれでも簡単にできると思っていた私が恥ずかしい。これからは、私がその人の杖になってあげたい」

それにしてもこの崇高な子ども心が、なぜ安易に、物ばかり豊かで心貧しい現世に風化してしまうのでしょうか。それは「心の問題」が、人間同士の生(なま)体験を欠如したままの、建て前論で終わるからです。しかもこの現状の打開は、大人の力だけでは絶対に不可能です。遠い未来に向けて、前記の子どもたちの鋭い感性を、ぜひとも開花させなければならないのです。この意味でも、えひめこどもの城での出会い体験は、強者と弱者が共生する社会に向けての一里塚でありたいものです。

平成17年4月1日