怒り、恐怖、不安などの情緒、美しいものを見たら美しいと思う感動や喜びは、まわりの人の共感的な態度によって決まるようです。そのためにも幼児期では、大人や友だちといっしょにいることが楽しいとの情緒や、信頼関係を育てることが最も大切になります。ここをおろそかにすると子どもは情緒不安におちいり、人間としての全体的発達が歪んでしまいます。
えひめこどもの城にみる親子共生の風景
情緒を育てる
1.絶対的信頼感 ~アルバムの厚さ~〈幼児コーナー〉
園内で撮影フラッシュが最も多用されるところは、たぶん幼児コーナーでしょう。驚くなかれ泣く、飲む、眠ることが商売であった新生児たちは、生誕後1カ年足らずで「はい、ポーズ」の声に満面笑みをたたえ、けな気にも反応できるようになるのです。すると親御さんたちはもうメタメタの心地です。「おー、おー」と声にならない声を発しつつ、懸命にシャッターを押し続けます。つまり親子の信頼感に裏打ちされた気持ちのやりとりを楽しんでおられるわけです。いや正しくは子どもの反応にしびれた親が全心身を投入しつつ、せっせと子どもにかしずいているわけです。
ところがこの場面に、わたしがしゃしゃり出てカメラマン役をつとめることになりました。とたんに「あっ、変な奴」と赤ちゃんの顔が曇ります。母親との接触が豊富な赤ん坊ほど人見知りは強いようです。涙なんか流して泣こうものなら、ママは「おーおー、ごめんごめん」と抱っこして揺すったりさすったりです。それでも内心はわが子が「ママこそ命と思っている」と有頂天になり、ルンルン気分です。ところでもともと母親は崇高な母性愛なるものを、生得的に具備しているわけではありません。このことはコインロッカーや長女毒盛り事件、急増する幼児虐待などからも明白です。
すなわち母性本能は「かわいい、かわいい」と子どもにかかわっているうちに、徐々に養われて育ってくるものに他なりません。ゆえにもっとも重要なことは「快」「好き」「楽しい」などの情感に支えられての、子どもとの具体的な接触とその豊かさにあるわけです。
第一子の時には5冊にもなったアルバムも、第三子の時はたったの1冊なのです。しかし親子のかかわり体験は量ではなく質なのです。ファインダーを通し目と目を見合わせながら、絶対的な信頼関係をどう形成するかの問題です。
そのためにもこの期の子どもには
- ほほ笑みの交換や、指さしができる
- まわりの人、特に母親の言うことがわかる
- 友だちとごっこ遊びができる
などが、重要不可欠の発達指標となることでしょう。えひめこどもの城での遊びの体験はこうしたかかわりを、母子関係の一環として具体的に体得するために用意されているのです。
平成12年10月1日
2.母子一体 ~おむつ軍団~〈授乳室〉
きょうの授乳室と幼児コーナーはごった返しです。総勢は50余名というところでしょうか。この狭い空間の中で0歳~1歳児たちの「はいはい」→「つかまりだち」→「二足歩行」に見入っていますと、それぞれの身体活動の背景にはすばらしい精神発達が広がることを教えられます。
総じてこの子たちのお尻には、紙または布おむつが装着されています。このことは身辺自立の様態からしてもしごく当然のことでしょう。「おむつ軍団」のスタイルには、独特の壮観さとさわやかさが満ちあふれています。そしてこの軍団は身体に障害がない限り、何らかのきっかけで必ず歩くことができるようになるのです。
ふと見ると一人のおかあさんが、わが子のパンツを引き下げ懸命に中をのぞきこんでいます。そのうちに自分の鼻を近づけてクンクンと臭いはじめました。そして授乳室に飛びこんで行かれました。わが子の生理的異変がことば以外の目つきや表現しぐさで瞬時に弁別できるわけです。崇高な無償の愛?に加えていくばくかの育児経験を持てば、こんなことにわざわざ感嘆していること自身がおかしいことなのでしょう。賢明なお母さんたちはできないことをむりやりやらせるよりも、子どもとぴったりくっついた関係の中での「母子一体」、絶対的な信頼関係を形成することこそ最も重要であることを本能的に察知なさっているのです。
そんな想念の中で或る著書「幼小児というのは、親の体温を感じるだけでいいんです。ことばはいらないんです。いちばん大事なことは、だっこするというスキンシップです」の一文を思い浮かべました。ここで幼小児とは三歳児期以前を指すと考えます。この年代に前期場面のような排泄物をも共有する、抱きしめ行為を子ども自身が体験的に自己認知できるかどうか。そのことによってその人なりの人間形成は、半ば決定されてしまうのではないかとわたしは考えこんで久しいのです。
子育ての具体においては、何でも言って聞かせてやる言語万能主義は非力そのものです。えひめこどもの城はそれへの警鐘として、身体ごとの親子共生のかかわり体験をいかにして提供すべきか苦悩しているのです。
平成13年6月1日
3.核家族 ~ああ。異年齢交流~〈親水護岸〉
ここは標高170メートルの頂上部に位置する「てっぺんとりで」です。遠くに目を向けると、青く澄みきった瀬戸内海が望めるのも驚きです。そして手前に約50万人都市の松山市が広がります。さらなるパノラマ風景の一つとして砥部の家並みが続きます。もちろん通谷池のボート群も、その絶景の一つに挙げられるでしょう。艇数は総計で20槽ですが、それぞれの動きにはそれぞれに乗り人のご家庭が象徴されているようで、興味しんしんというところです。
山頂からでもボートの動き具合で、漕ぎ手をおおよそ推察することが可能です。エンジン役のパパの額の汗や肩幅は、「やっぱりスゴイ」と畏敬されているでしょうか。そんな時の祖父母の多くは、親水護岸から静かに観覧されることが多いようです。孫たちとは適度な距離を保ちつつ、親たちによる父性、母性愛の発露を見つめておられるのです。これはこれで誠に結構なことであります。なぜならここでは「お手伝いはしますが、子育てはまかせましたよ」とする、冷静な役割分担が確認されているからです。
ところで止むことを知らない少なく産んで手厚く育てる風潮は、子どもたちの生活を少数の同年齢構成・横並び一線で塗りつぶしてしまいました。同時に定員3~4名の槽(ボート)同様の核家族形態は、一つ屋根の下から祖父母の存在とその効用価値を払しょくしてしまったのです。結果的に各家庭は、年齢差による価値観や思惑の行き違い、さまざまな精神的葛藤をもののみごとに払しょくし、外見的には順風満帆の様態のように見えます。
だが隣は何をする人ぞとのひとりぼっち感は、子育てでの孤立感と援軍不在感を容赦ない形で突きつけております。今、少子高齢化家族が直視すべきは、成員同士での共感、安堵感なのです。そのためにも両親と祖父母間の育児コミュニケーション、年長、年少児混交の遊び、暮らしがあらためて再認識されるべきではないでしょうか。
えひめこどもの城は、人間発達に不可欠の「異年齢交流」の機会を、どのような形で提示すべきか、あれやこれやと苦悩しつつ懸命に模索しているところです。
平成13年12月1日
4.聴覚映像 ~聴く読書~〈図書コーナー〉
開園から3カ年。図書コーナーの書架もだいぶ賑やかになりました。それだけに選べる本もかなり多くなったわけです。わが子に絵本を読み聴かせるママの声は、いつも朗々として美しいですがきょうはまた格別です。「ああ!ママは本気だ。心で語っておられる」と眺めているこちらまで嬉しくなります。聴き入る兄妹の目がキラキラと光っています。昔日よりこうした風景は、どれほどまわりの人の心をはずましなごませてくれたことでしょうか。まさに親子が協同で演出する文化とはこうした雰囲気を指すのでしょう。
ところで幼い子どもにとっての読書の魅力は本の内容そのものよりも、読んでくれる人、まわりの仲間によって決まることを忘れてはなりません。すなわち読み手の音声が子どもにとっては楽しい、嬉しいことが絶対条件となるわけです。人間のコミュニケーション、気持ちの通じ合いとは、本来的に人と人との関係のあり方の問題であります。すなわち読み手の存在が菩薩に見えるからこそ、その人の声を聴くだけで子どもの気持ちはスーッと落ちつくのです。このような「お耳からの桃源郷」が確保できるかどうかが、その後の読書力や人間形成全体の命運を大きく左右するところともなるのです。
このことは本が読めることを念じる前に、ゆったりとした雰囲気の中で「お話を聴く」、「絵本を眺める」ことが好きな子をどのようにして育てるかが、大きな課題となることを意味します。子どもの活字離れが叫ばれてすでに久しいことは事実です。しかしその罪人はテレビや漫画本だけとは限りません。
前述、図書コーナーのママのように子どもといっしょになって、ただひたすらに読み聴かせる、子どもの感じ方を最大限に尊重しながら心をこめて語り込む、そんな養育者が少なくなったことが大問題なのです。それだけに現今の子育ての中で再三再四にわたり工夫されるべき支援法は、親子の情感的交流を基盤としての「読み聞かせ」の具体的な展開にあるのです。
時節をとらえこどもの城では、「紙芝居おはなし会」「おはなしのへや」「自転車紙芝居」の実践が地道に集積されています。ここでの楽しさの体験は即効性を越えて、生涯にわたる心の古里、思い出となって生き続けるにちがいありません。
平成14年2月1日
5.感受性 ~生(なま)体験こそ~〈ふれあいトンネル〉
久方ぶりの寒波襲来。こどもの城周辺もめずらしい積雪に、すべって転んでの笑いと涙でした。そして今、桜花爛漫(らんまん)の春。この時節はやがて炎天下の夏、綿秋の紅葉へと引きつがれ、四季それぞれは価千金の舞台を演出することでしょう。ただしここでの美しさには見ようとして見ない限り見えない、感覚上の落とし穴がひそんでいることを忘れてはなりません。
私は本園を散策する時いつも道元禅師のことばを想起します。「春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪冴えてすずしかりけり」。別に深い意味はありません。が、ただぶつぶつと反芻(はんすう)していると、えひめこどもの城に点在する天与の花鳥風月が、至宝のものとして受容できるような気になるのです。
松山市と砥部町を結ぶふれあいトンネル(227メートル)内の風景も、その1つであります。とりわけ陽炎(かげろう)燃え立つ真夏日の涼風、烈風吹きすさぶ厳冬の寒気はまた格別です。ここで人間のみが使用するすずしい、さむいとのことばも、トンネル内での実体験に支えられてこそ、はじめて生きて機能するに違いありません。幼少時期での学習の原点は「いかに教えられたかよりも、具体的経験の場がどれほど豊かに用意されたか」にあるのです。そのためにはあらゆる場所で、遊びの「生(なま)体験」がさらに真剣に模索されてほしいものです。
きょうも子どもたちが関係する痛ましい事件が発生しました。まさに現代社会並びにその教育は、心の問題をめぐって疲弊困惑(ひへいこんわく)の態ありありです。百点、満点が取れる頭は育ってもあたたかい思いやりの心は育たない、痛切な現実はまぎれもなく現実なのです。そのせい惨さへの対処策の多くは泡(あぶく)同然の非力さで、前途の光明はいっこうに見えて参りません。
ただそれでも最善で、最後の道は、美しいものは美しいと弁別し受容できる豊かな感性の育ちにあります。しかもこれは知識や技能の習得を主務とする学童期以前、幼児期での最重要課題に他なりません。えひめこどもの城での遊び体験の中で、五官全体を研ぎ澄ませながらモノやヒトと向き合うことは、即、貴重な心の育ちのためにもあるのです。
平成15年4月1日
6.知行合一 ~ウグイスの谷渡り~〈屋外トイレ〉
世上では陰惨きわまりない事件や事故が後を断ちません。深いため息と共に、何かほのぼのとする心の癒しが欲しいと願わないではおられません。そんな折に本園の屋外トイレ=8ヶ所でのウグイスの谷渡り(オーオー、オキロ)を思い浮かべました。場所によっては、これに笹鳴き(チャッ、チャッ)カッコウ鳥の(カッコウ)も加わります。
もちろん本園ではほんもののウグイス(お師匠さま)が常に鳴いています。その絶妙の美声に、どれほど多くの人が心を癒されたことでしょうか。それにくらべてトイレの人工擬音はひな鳥の鳴き声そっくりです。その幼稚さや滑稽さがかえってわたしどもの胸に響きます。これは赤ん坊の笑い声や幼児のカタコトが、音素的には未熟であっても人の心をとらえて離さないのに似ています。すなわち耳を通しての聴覚映像は、関与者自身のかかわり方によって大きく変容するものなのです。
ところが目を通しての視覚映像はあくまでも鮮明であり、完全無欠であるに越したことはありません。早い話がトイレ、便所、お手洗い、化粧室とそれぞれに呼び名は違っていても、ここは視覚的に美しいことが絶対条件となります。こうした意味で本園のトイレは目と耳の両感覚を統合しつつ、従前の3kイメージ(汚い、臭い、暗い)を、ものの見事に払しょくしていると自賛いたします。ただしこの様態はトイレの使い方の成果ではなく、委託清掃の結果であることを忘れてはなりません。
今日の公衆トイレの惨状は、期待される人間像としての「知行合一」がいかに困難な課題であるかを物語ります。すなわちわたしどもは、トイレを美しく清掃したり使用しなければならないことは頭の中では十分に知っているのですが、実際に美しくする一歩の実践が出来ないのです。正直なところこのような建て前と本音の使い分けは、大人の日常生活では随所にころがっているわけです。人類にとって道徳律の問題は、まさに永遠の課題となるといっても過言とはなりません。
えひめこどもの城のトイレ(癒しの道場)での、苦悶を1つだけ記載させていただきます。「トイレ使用に関するマナーやルール確立のためにも、ここでの美しさ体験はこの上なく大切にしたいものです。しかし課題の本質なり深層は、敵は本能寺にありとばかりに別のところにあります。そのためにも今一度、家庭や学校トイレでの心の教育が猛反省されるべきであります」。
平成15年10月1日