えひめこどもの城にみる親子共生の風景

社会性・やる気

子どもは遊びの天才であり、遊びを通して人としての成長を遂げて行きます。それゆえに遊びが好きな子どもを育てることが、子育てでの第1の関門となります。遊ぶことが好きな子であってこそ、友だちとの関わり方や社会性、やる気も望ましく会得することができるのです。そのためにも養育者は、遊びの価値や重要性を十分に認識していることが大切です。

1.場の雰囲気 ~これ以上はダメ~〈芝生広場〉

芝生広場から児童館に向かう途中、「この階段、何段あるの?」と問いかけても、A君は無言です。「72段?」とわたしがつぶやくと、「うそだい。63段だよ」。知らないふりをしながらちゃんと知っているのです。しかも危ないことも承知の上で・・・。階段外側の崖っぷちをわざわざ歩くのです。「これ、これ。危ないよ」としがない言語的指示がつい出てしまうのも、長い教師稼業で身についた悲しい性(さが)なのでしょうか。

もともと本園では遊びという日常生活の具体の中で、その場の雰囲気がわかる子が育って欲しいと願っています。最近は「モノとヒトとの区別がつきにくい」「友だちとうまく遊べない」「いきいきと会話ができない」「感情表現が貧困である」など、社会性の発達に問題を持つ子が増えているように感じられます。これへの有力な対処策は、どのようにして豊かな遊び体験を蓄積するかにかかっているわけです。

ある時期からわが国の教育は、「より正しく、速く、多く」知識や技能を習得させることに血道をあげてきました。そして結果的に、お勉強のできる子どもは心も育っているはずであるとの満点至上主義の教育観を招き入れました。しかし連日のマスコミ報道では殺人事件に連座する少年たちの悲劇や、いじめ、登校拒否、学級崩壊、児童虐待、自殺に直面する学校教育の苦悩が後を絶つことなく報じられています。

今、わたしたちは「いくら学力を高めても心は育たない」「うまく転ぶことさえできない」、モヤシのような子どもの現実を前にしつつ、百点、満点至上主義が瓦礫(がれき)のごとく崩壊するのをただ呆然として見つめているのです。

この教育危機打開の1方法は「ここまではよいが、これ以上はダメ」とする手加減の感覚、相手への思いやりの心の育ちに内在していると考えられます。これは点数化できるものではありません。「今、ここに」の場面、モノやヒトとの具体的なかかわりを通してのみ習得可能となるものなのです。えひめこどもの城での「あまり教えない、口を出し過ぎない」「子どもの行動が1歩先んじ、大人の行動が一1歩遅れる」を信条をする、遊び、体験学習の真価もかかってここにあると思われてなりません。

平成11年12月1日

2.10年来の同士 ~相手の気持ち~〈多目的ホール〉

きょうのお客さまは遠足で来園された某幼稚園、約二百名の子どもたちです。1階ホールでの園長先生のお話が終わるや否や、雪崩れをうって多目的ホールへ猪突猛進(ちょとつもうしん)です。目ざすはそこの三輪車なのです。それぞれの子どもはいちばん人気が高い遊具を知っているのです。それは以前にパパやママと来た経験があればこその貴重な知識です。しかし残念ながら台数には限りがあります。

当然のことながら例によって例のごとくの争奪戦です。子どもは自分の気持ちに忠実で、大人のような建前と本音の使いわけはありません。そのことがまばゆいばかりの光彩を放ちます。そのうち5歳児さんが思いあまってお友だちの頭をポカリ。しかし殴られた子も負けてはいません。相手に独占させまいとしゃにむに三輪車にしがみついて離れません。目には目、力には力の実力闘争の世界です。この期の子ども独特のケンカの発生です。

子どもは遊ぶことが商売。体験を通してこそ子どもは成長するとはまさに至言です。体験とは遊びでありケンカなのです。子どもにとって重要不可欠なことは、全心身を投入しながら遊びとケンカができることです。にもかかわらず現代社会の病弊は、「ひとりで遊ぶ方が楽しい」「友達と遊ぶと疲れる」と感じる子どもをおとなしい、かしこいとの美名の下で続々と産出しつづけているのです。こうした実態は子どもの成長や発達の母体となる、「仲間集団」を無意識のうちに否定しているわけです。

三輪車の奪い合いは貴重な仲間集団の中でのぶつかり合い、試練、修正行動に他なりません。子どもたちはここでのしがらみ、擦りむき傷の痛さや涙を通しながら、真の社会性や対人関係のあり方を発見し学習しているのです。ご覧下さい。あれほどに激しい争奪戦を演じた先ほどの敵と味方は、ハンドル2個の三輪車上でぴたりと呼吸を合わせつつ、十年来の戦友同士となりきっているではありませんか。

遊び、経験至上主義のえひめこどもの城でのねらいは、お友だちとの遊びとケンカの体験を通しながら、他人の痛みをわが痛みとして感受できる思いやりの心や、これ以上はダメとする手加減の仕方の育ちへの期待にあります。

平成12年2月1日

3.絶対評価 ~わが子とあの子~〈あいあい児童館〉

幼児クラブの2歳児さん。集いの回を重ねるごとにおしゃべりもだんだんしっかりしてきました。でも最初の出会いは今にもベソをかきそうな顔と顔でした。絶対安全基地であるママの膝にしがみついて離れられない子も多かったです。それでもそんな修羅場はほんの数回でした。子どもは遊ぶことが商売、命なのです。最初のくしゃくしゃの泣きベソは笑顔に変わり、一緒に踊り紙芝居に見入り、頭を叩き合いながら大声でお返事ができるのです。遊びの神童たちはまさに変わり身の天才でもありました。

大人の場合こうは参りません。親御さんの多くはわが子のより多く、正しく、早くを願うあまり、できないこと(遅い、へた、注意散漫など)が気になって仕方ないのです。本クラブ活動でも通算4回目あたりからママの顔つきが変わりました。

理由は簡単明瞭であります。「わが子とあの子」の相対的な比較だけでなく、子ども自身が出来ることにも目が向き始めたからです。そしてママがニコニコと笑うと子どもも笑い、全てに積極的になってくることが次第にわかってきたのです。このことは親は子どもを育てると共に、子どもを通して成長することを物語っています。この呼吸のような心の響き合いこそ、乳幼児期の子育ての原点となるもののすべてなのです。

最近、教育課程審議会が指導要録や内申書の見直しとして、相対評価〔序列化〕から絶対評価〔個別化〕への視点の転換が必要であると答申いたしました。1人ひとりのできることや、その子のよさに目を向けることが大切との指摘であります。これは誠に重要なことではありますが、この理念の具体化は昔日から砂上の楼閣と同様に脆くてはかないものでありました。真の意味での人間観、遊びの価値観が構築できなかったからです。

もとよりえひめこどもの城は、よくできるようになることを指導する教育機関ではありません。子どもとオトウチャン、オカアチャンが1つの団子になって、身体ごと活ききる遊びの場なのです。大言壮語をもてあそぶようですが、ここで思いっきり遊びに没入すること自身が、国家百年の教育大計を沈思し黙考していることになるのです。

平成13年2月1日

4.過保護・過干渉 ~幼児クラブ~〈ボランティアルーム〉

きょうも、ママといっしょのお遊びが終わりました。みんなで声をそろえてお別れのご挨拶です。「さよなら。あんころもち、またきなこ。さよなら、バイ・バーイ」。本園での幼児クラブ活動は年間16回。延べ人数は約三百二十名というところでしょうか。ことわるまでもなくこどもの城は保育、指導機関ではありません。ましてや早期教育=「文字・数能力の指導」などは泡沫(うたかた)の夢の夢です。今ここでただ目を輝かせて、イキイキと遊びに没入することこそ、子ども本来の生きざまの全てなのです。

ところで今日、多くのママたちの間に伝染した病原菌の1つは、幼児自身の基本的生活習慣よりも、文字や数を覚えたり書いたりすることの方がずっと大切であるとする思いこみにあります。すなわちここでは、知識とか技能に関する(できるか、できないか。早いか、遅いか。多いか、少ないか)などの、表面的な能力だけが気になって仕方ないのです。そして結果的に短兵急に教えこむことに熱中し、子どもを信じて待つことが不得手となってしまっているのです。幼児期の子どもにとって最も大切な自立(自律)への難敵は、何でも教えたがる過保護・過干渉型の親なのです。

子育てに対する確信の1つに、親が変われば子が変わるがあります。それゆえに乳幼児期での早期教育には、子どもへの直接的な働きかけと同時に、保護者自身による自己変革が厳しく問いかけられているわけです。この場合の自己変革とは、文字通りとうちゃんがとうちゃん、かあちゃんがかあちゃんらしくなることです。

両親による無償の愛の根幹は、子どもが心底満足するまでに抱きしめる行為にあります。そしてそこに形成される絶対的安心感を基底としつつ、ヤッテ、ヤッテゴランと子どもの側からの自発性をうながすことです。生後3カ年間における最大課題はこれに尽きますが、知識偏重の世上ではこうした自明の理さえも危なっかしい限りです。

えひめこどもの城の幼児クラブは、知育の根底には、感性の世界が広がることを、母子一体の遊びの中で身体ごと確かめようとしているのです。これは高遭な理念や理論ではありません。文字通りイキイキと目を輝かして、ただ遊びの中に生き切ることなのです

平成14年4月1日

5.内言活動 ~ことばの裏のことば~〈野鳥の森〉

山頂部に向かう路傍に、「林の中の○○に注意しましょう」との立て看板があります。○○とは毒へびのことです。それにしてもこの親子へびの絵は、なかなかにユーモラスで思わず笑いがこぼれます。しかしこうした半具体=絵文字を通しながら、子どもたちには天敵(毒へび)のイメージが即座に浮かばなければなりません。このことは換言すると、表面的なあたたかさだけに限らない「ことばの裏のことば」が分かることです。人間の人間たる本来的なゆえんも、こうした考える力=内言活動にあるわけです。

そのためにはまず目に見えるモノの名まえが、いっぱいわかることが絶対的に必要です。或る人のお話によりますと、当園に飛来する鳥は年間を通して約47種類にのぼるそうです。これに四季おりおりの花や草木、動物の全てを合わせるとその数は大変なものになります。これらの1つ1つには定まった名前があります。

人はそれらを具体的体験の中で確実に覚えこんでいるのです。いや名まえだけではありません。路上のみみずの骸(むくろ)、舞い散る落葉・・・。そんな風景を目の前にしながら生きものの厳粛な終末(死)を知り、かなしい、さみしいとの情感をも体得するのです。

ともかく人はこの世に生を受けた後わずか3年間で、今、目の前にないモノ・ヒトを自分で見立てたり想像したり、感じ取ったりできるようになるわけです。しかしこうした能力(象徴機能)は、日常生活の中のモノ・ヒトとの豊かなかかわり体験がない限り、一面習わぬ経を読むに似て、空しいことば唱えレベルに終わってしまうのです。にもかかわらずこの世では、ことばにさえ置き換えると安心してしまう、言語至上主義的な考え方が根強くはびこっております。このことは人間形成上でもたいへん危険なことです。口先だけのコミュニケーションでは、誠実な心を持った人は育たないのです。

えひめこどもの城はヒト・自然共生型の劇場なのです。当然ここで演出される物語のすべては、何かを覚えるのではなく何かを体験することに意味があるのです。ここを急がば回れの形でどれほど豊かに用意、提示して上げるかによって、ほんとうに考える子どもが育つかどうか、その命運の大半は決まると思われてなりません。

平成14年10月1日

6.独自性・共通性 ~オンリーワン~〈駐車場〉

開園以来4年有余。正面ゲート「ようこそ、えひめこどもの城へ」との歓迎幕横を約二百万人の人々が通ったことになります。いささか郊外の当所へは車の有無で月とスッポンの違いです。それだけに本園では五百台、動物園には約千三百台の駐車場が用意されています。満車時には大、小、色、形混合で百花繚乱(りょうらん)の景そのものです。これに微妙な車体疵(きず)を加えますと、それぞれの個性、独自性はさらに深まります。若し車のすべてが全く同じなら持ち主は愛車探しだけでもひと苦労でしょう。

それぞれの独自性(違っていてあたりまえ)は、各車の華麗さや性能決定の重要な基準となります。しかし一方、車は美しいだけでは動きません。エンジンとハンドルは絶対的に必要です。これは共通性(よそさま並み)の問題と言えます。今後の車の機能追求は、こうした独自性と共通性の両面から厳しく続けられることでしょう。誠に結構なことです。

ところで人間社会での価値決定は、車社会とはだいぶ異なっております。「十で神童、十五で才子、二十過ぎればタダの人」「赤信号、みんなで渡れば怖くない」などは、究極的にはタダの人やよそさま並みになることの強調に他ならないでしょう。昔日より教育界においても、こうした共通(画一)性が重視され続けてきたことはゆるぎない事実です。

しかし近年、ノーベル賞・連続受賞の3先生がたそれぞれの「ナンバーワンよりもオンリーワン」との提言や指摘は、画一的な人間形成に対する貴重な警鐘であると言えるでしょう。まさに21世紀の教育課題の1つは、人は違っていてあたりまえとする独自性の開拓にかけられるべきであります。

さまざまな体験学習で創造性や自主性、豊かな感性等を育むえひめこどもの城は、従前の家庭、学校、社会生活には包含しきれない学びの新領域です。それだけにここは豊かな体験学習や遊びの場の用意に徹し、あまり教え過ぎないことを使命といたします。まず子どもの動き(遊び)が一歩先行し、大人の動きが一歩遅れる遊び至上主義の社会なのです。希求される人間的独自性はまず子どものやる気に根ざした暮らしがあってこそ、はじめて具現可能となるにちがいありません。

平成15年6月1日