何でも自分の思い通りになると決め込んでいた子どもたちは、2歳頃になると、この世の思い通りにならないことに気づきます。そして3歳頃からがまんする心の芽生えが本格化します。この心の働きは、その後のさまざまな発達に大きな影響力を持ちます。とりわけ雑草のようなたくましさをどのように会得させるかが、現代の教育での最大課題の1つとなります。
えひめこどもの城にみる親子共生の風景
がまんする
1.敗者の哲学 ~負けること~〈おもちゃの倉〉
1歳5ヶ月の(男児》と、1歳2ヶ月の(女児)は初対面同士です。ふたりは1つのおもちゃをめぐって虎視眈々(たんたん)、相対峠(じ)しております。お互いに何とかして、その「対象物」を自分の所有物にしてしまいたいわけです。ここには「ほしい」「ちょうだい」「いや」に類する日本語はまったく存在いたしません。ただ目と表情のしぐさのノンバーバル・コミュニケーションがそのすべてです。これらは情動や感情、行動、経験の共有や分離をめぐる心的葛藤そのものに他なりません。この意味において幼いふたりのコミュニケーションはなんと豊かな内実を持つことでしょうか。思わずわたしは拍手を交えながら、「お互いに負けないで、がんばって・・・」と叫んでしまいました。
そのうち、いやついに男児が体力にまかせて対象物を専有してしまいました。当然のことながら女児は不満です、泣き叫びながら母親に訴えます。男児の母親は申しわけなさそうに「すみません」と謝ります。これに対して「いいえ、どういたしまして」と、母親同士のコミュニケーションが始まります、それでも1敗地にまみれた女児には、思いどおりにならなかったくやしさがふつふつと沸き起こっていることでしょう。
今日わが国では、世界のいずれの国も体験したことのない急激な少子化が進行しています。少なく産んで手厚く育てるとの夢は夢として果てしなく広がります。それだけに「勝つことのみ」を希求する受験戦争も、学校5日制などとは無関係に疾風怒濤の勢いで低年齢化を強めています。しかしながら、真の勝者としての人間的成長やたくましさは、前述の女児が涙のなかで味わっている、「負けた」「挫折した」無念さの中に横たわっているのではないでしょうか。
21世紀の最大の教育的課題とも呼べる「温かい思いやりの心」「たくましく生き抜く力」は、まぎれもなく勝者の側だけではない「敗者の哲学」の中にひそかに内在するにちがいありません。
なのに、わたしたちの子育てや教育観は、いつから勝つこと至上主義に傾斜してしまったのでしょうか。こどもの城での遊びや暮らしの場は、「負けた」「挫折した」経験の大切さ、それへの1歩の踏みこみの意義の検証のためにあることを忘れてはなりません。
平成11年8月1日
2.ああ、同胞 ~損な役~〈映像コーナー〉
遊びの体験の場である「こどもの城」は、同時に養育者相互のコミュニケーションの場であります。ここでの何気ない会話の中には、有益な子育て情報がふんだんに飛び交っています。いや笑顔の中で、ニコニコと話を聞いてもらうだけでも、当事者の気持ちはどれほど安らぐことでしょうか。子育ての真髄の1つは養育者自身の対人関係の持ち方に秘められているのです。
初対面のお母さん同士が、先刻から図書コーナーで談笑されておられます。少し離れたところで5歳くらいの兄と2歳くらいの妹が、それぞれに自分が好きな絵本に見入っていました。しばらくすると退屈した妹が兄の膝を突きながら、いっしょに遊んでほしいとねだります。本に夢中の兄は「イヤダヨ」と気がありません。たまりかねた妹は大声で泣きながら、兄の頭をポカリと殴りました。すわ同胞喧嘩?が発生したようです。
お話に夢中のようでも、この事態をお母さんが見落とすはずがありません。「ダメ!。また、いじめた。お兄ちゃんでしょ。そんな子は大きらい。おおきな子がガマンするものです。辛抱しなさい」。ママの一方的な思い込みは、雷鳴と化して兄の頭上に落下します。いやはや兄の心中はいかばかりでしょうか。妹には何をしても笑ってすませられるのに、多くの場合「損な役まわり」は上の子に向けられがちのようです。
もちろんほとんどの母親は、小さくて弱いものをかばわなくてはいけないとする母性本能を具備していますから、これを一概に非難したり否定することは出来ないでしょう。
ただしこうした同胞関係が、その後ずっと固定化することには問題があります。なぜならきょうだいは他人の始まり、きょうだい仲は五世の契りとの背反的金言の分岐点は、乳幼児期の母子関係に内在しているからです。ここには血肉を分けた親子間といえども、「相性のよしあし」が冷酷な事実として横たわっているのです。そしてこのことを克服する道は、相性が悪ければ悪いほど、こちらを変える以外に方法はありません。えひめこどもの城は遊びの具体そのものの中で、苦悩果てない人間関係のあるべき方向を真正面から見すえるためにあるのです。
平成13年4月1日
3.体験・労作学習 ~雑草のごとく~〈果実の森〉
梅雨の頃、50余家族によって「さつまいも苗」が農園に植えつけられました。ぬかるみにおびえる子どもと保護者の愛嬌に満ちた「へっぴり腰」には、思わず笑いを誘われてしまいます。苗を逆さに挿したり土中に埋め込んでしまうママの姿にも、現代の教育や社会生活での体験の乏しさが赤裸々に表現されています。まさに「この親にして、この子あり」です。テレビやファミコン遊び、塾通いに多忙さをきわめる現代っ子たちの、戸外での遊び体験の貧困さは目をおおうばかりです。
その後、数回にわたって「さつまいも観察会」が開催されました。雑草の除去、水やり、土寄せ、ツル返しも、関係者によって根気強く続けられました。まさに「さつまいも育て」の原点は、したたり落ちる汗との格闘にあると言えるのでしょう。ここでの苦労の大半は抜き取っても抜き取っても、なお生え続ける雑草の除去にあります。
正直なところ誰にも歓迎されない雑草のしたたかさには、ただ、ただ舌を巻くばかりです。しかしよく考えてみますと、この「踏まれても、虐げられても、なお耐えぬく」たくましい生命力は、万能の神様が雑草のみ与えられた自然の摂理なのかも知れません。
まさにその生きざまは環境への適応力、他者との交渉能力、逆境をも笑い飛ばすしなやかで強靭な精神力、「生き抜く力」そのものに他ならないのです。これは点数化できる能力ではありません。が、現代社会での子育て(教育)は、この雑草のような強さの育て方を、今もなお見失ったままなのです。「いくら学力(知識・技能)を高めても、心が育つとは限らない」。この痛恨に満ちた現実はまぎれもなく冷厳な現実なのです。その最大誘因は「物ばかり豊かな情報化社会の中で、集団としての外遊びが激減し、室内のひとり遊びが倍増したこと」にあると考えられます。
こどもの城の体験・労作学習は、良い子(サラブレット)にふさわしい「机上の座学」の再現を意図するものではありません。「ふれあいの森」「冒険の丘」「イベント広場」を駆けめぐる、汗と泥まみれの「外遊び体験」の復活そのものに、現代教育の起死回生策を賭けようとしているのです。
平成13年10月1日
4.危険回避力 ~擦りむき傷~〈せせらぎ〉
池のあるせせらぎでの出来事です。「アッ。シマッタ」と思った瞬間、身体は仰向けのまま池の中です。浅い池ですから慌てることもないのですが、恥ずかしさも手伝って何とか早く立ち上がりたいともがきました。でも右手には全く力が入らないのです。ままならぬ腕の中を焼け火箸同様の激痛が走りぬけます。後刻の診断書には骨折、全治2ヶ月の重傷と記入されていました。
いやでも即刻入院の身となりました。ベッドの中で再三再四にわたり自分の散漫さ加減を反芻(すう)いたしましたが、腕の苦痛はいっこうに軽減されませんでした。ただ1つだけ気分転換の方法がありました。それは連日のワールドカップ戦を見ることでした。しかしこうは言ってもやむなくテレビに目をやっているだけで、サッカーへの関心は皆無に等しいのです。
それでも回を重ねるにつれて、鍛えに鍛え抜かれた選手達の身体の動き、そのしなやかさとしたたかさにはただ感嘆、感動、絶句の連続でした。不思議といえば不思議なのですが、わが身が不自由=劣位であればあるほど、健常な人の自由=優位さがよけいに鮮明に映るわけです。
閑話休題。山や谷、森や池・・・。それぞれが演出する自然性こそがこどもの城の特色です。当然、ここにはいろいろな危険が横たわっております。だがスリルに満ちた危険な遊びほど面白い。子どもの心性は大人が管理する遊びでは躍動しないのです。にもかかわらず現代の子どもの多くは、「危ないから気をつけましょう。あれもダメ。これもダメ」との禁止(保護)区の中に生きているのです。これは一見、恵まれているようですがほんとうは悲劇的なことなのです。なぜなら真綿の中でぬくぬくと育った子は、愚かなわたしと同じように大怪我をしてしまう可能性が高いからです。
今、この子たちに必要なことは、小さい怪我はしても大きい怪我は絶対にしない「危険回避力」なのです。サッカー選手たちは長期にわたる血みどろな訓練や生活体験を通し、こうした能力を会得しているわけです。当園での遊びの中で、遭遇する小さな怪我、その擦りむき傷に流した涙の価値も、かかってここに連続するに違いありません。
平成14年8月1日
5.体力診断テスト ~運動能力こそ~〈マウンテンバイクコース〉
冒険ステーションがある半島部には、地形の変化をたくみに取り入れたマウンテンバイクコースがあります。ここでの灼熱地獄と厳冬の烈風はまた格別で、当園「チャレンジ精神道場」の1かくとしても至宝です。ここでのクラブ員(小学生)の腕前は、つまずいた時にとっさに手が出ないで頭や顔に大ケガをしてしまう、当世の子ども気質とはまるで別世界のようです。
先般も新聞紙上で、「今のこどもたちは、親の世代にあたる30年前の子どもより体格は上回っているものの、体力は下回っている」ことが報じられました。現代における絶対多数の子どもたちは体格はよいが運動能力に劣る、おかしなからだの持ち主なのです。文部科学省はこの原因を、「子どもの外遊びやスポーツをする時間、場所、仲間が減少しているだけでなく、睡眠不足や食生活など、子どもの生活習慣の乱れも影響する」と分析しています。これはとても深刻な問題です。
ところでマウンテンバイクと運動能力には、どんな関係があるのでしょうか。わたしはコースに誰も出ていない時刻をねらい、年寄りの冷や水さながらにペダルを踏んでみました。もちろん生涯の中での初体験です。まずお尻が痛いこととハンドル具合が気にかかりましたが、そのまま走りはじめました。ところがなかなかどうして、ここには意外に高次な運動能力が必要だったのです。次の急カーブでものの見事に転んでしまいました。
結局のところ、わたしの走行持続力はコースの2周が精いっぱいでした。誰にも見とがめられなかったものの、数週間にわたって身体のふしぶしに痛みが残りました。
1.マウンテンバイクの練習は仲間でするのが効果的
2.転倒の痛みと共に技術は向上する
3.体格は運動能力に昇華されてこそはじめて意味を持つ。
これらはしごく当然のことでしょうが、バイクに乗ってみてのわたし自身の体験的な自己納得でもあります。
なお「転んだ子は泣きべそかきながら、じっと辛抱している」「その痛みを自分の痛みとしながら、友だちがいたわりのことばをかける」「子どもは子ども同士の関係の中で発達する」。こうした情景は想像しただけでも楽しいものです。しかもこの根底に横たわる『辛抱する心』『思いやりの心』の育ちは、現代の子育てや教育における最大の課題となるものです。この二つさえ何とかできれば、後は子どもの自己教育力で何とかなると、本園でのねらいもここにかけているのです。
平成16年4月1日
6.開園5周年 ~3つ子のたましい~〈こどものまち〉
通勤途上の総合公園では陸上競技やテニスの練習風景をよく見かけます。選手たちの洗練された技と力には、流れるような自然さがあります。それが樹林の朝日に映えますとまさに一幅の絵のようです。わたしはその美しさに陶酔し胸いっぱいの深呼吸をします。そして思わず活力を得たつもりになって一気にこどもの城への階段をかけ登ります。しかし悲しいかな・・・。老身の呼吸数はわずか数秒で千千(ちぢ)に乱れてしまうのです。
やっと到着したこどものまちゾーンには、移植5年めの木々がつつましやかに点在します。それぞれの名札には、一種の未熟さと可能性が混在するように見えるのも不思議なことです。これらが運動公園林並みのたくましさを具備するには、約30年の歳月を必要とすることでしょう。同じ意味での人の成長過程にも時の流れの重みは明明白白の事実です。開園時に生まれた子も今、5歳の節目としての発達課題と懸命に向き合っています。誠に感慨深いところです。
昔日より「3つ子のたましい百までも」とのことわざがあります。これは発達初期としての5年間の生育史には、重要な3歳児期があることを提起しています。この期の精神発達は、・第1反抗期・自我の芽生え・自己主張・わがまま・自立(律)心・母子分離・分離不安などと深く関連し合います。それだけに3歳児期を中核とする心と身体の調和的発達は、その後の長い人生に甚大な影響を与えること必至です。この場合の心とは、思いやり、辛抱、やる気の問題です。が、これらの基礎づくりは最も適期である幼児期においてこそなされなければなりません。
今一度、先ほどの運動公園にかえりましょう。ここの路上で出会う運動選手の絶対多数は、見ず知らずのわたしに対して「おはようございます」とのさわやかな挨拶を送ってくれます。まさしく健全な精神は健全な身体に宿るとは、未来永劫にわたる不変の真理であります。人間形成の到達点もかかってこれに尽きるといっても決して過言とはならないでしょう。申し上げたいことはただこれだけのことです・・・。だが現代教育の悲劇の1つは、心と身体の乖(かい)離性にあります。
それだけに本園では身体ごとで走る、跳ぶ、転ぶ、泣くなどの数多い生体験を通しながら、健全な心の根底には健全な身体が横たわることを、ただひたすらに見すえ体得させたいわけなのです。
平成15年2月1日