えひめこどもの城にみる親子共生の風景

思いやりの心

子どもたちの思いやりの心は、両親やまわりの人から思いやりを受けることによって育つとされます。この場合の両親は例外なく、子どもの立場に立って子どもの気持ちを理解することができます。そのためには抱いたり肩を組んだり、スキンシップを中心にして子どもの相手をし、叱ることよりもほめることに力点を置いていることに注意しなければなりません。

1.求同存意 ~最大の敵、そして味方~〈森の広場〉

ここは「森の広場」です。すべり台上で2歳くらいの男児が泣き叫んでいます。この期の子は上りに比べて下り坂が苦手です。おばあちゃんは「すわこそ、孫の一大事」と「ママはどこにいるの」とあたりを見回しています。しかし怒った顔つきのママは知らんぷりです。孫、実子という関係の違いで、同じ泣き声でも両者の対処法は異なるわけです。

孫が心配でたまらないおばあちゃんは、「かわいそう。ママ、下ろしておやり」と怒鳴ります。しかしママは弟の世話に懸命の様子です。それでもたまりかねてすべり台に手をかけたおばあちゃんには、「やめてください・・・」と大声で応酬しました。その目は「この子のしつけはわたしがします。ほっといて」と怒っているようです。負けてはならじとおばあちゃんは、「ママは鬼みたい」とブツブツつぶやいています。遺恨20年。嫁姑戦争の再開のようです。いずれにくみすべきか、台上のこどもの泣き声には拍車がかかります。

ともあれ、子どものしつけをめぐる養育者相互のかかわり方の問題は、昔も今も不変の課題です。しかし錯覚してはなりません。歌の文句じゃありませんが、しょせん人間は生まれたときも死ぬときもひとりぼっちなのです。そしてそれぞれに厳然とした「違い」を持って生きているのです。にもかかわらずわたしたちは夫婦、嫁姑、親子という関係の中で「まったく一緒でなければ・・・」との難題を、自分勝手の思いの中でどれほど相手の側ばかりに押しつけていることでしょうか。

しつけの一貫性で最も重要なことは、養育者同士が「相手との違いを認めつつ、どのように自分を変えて同化していくか」、いわゆる格言「求同存異」にかかっているのです。そのためにもわたしたちは、「最大の敵、最大の味方」としての最も身近な人と時に対立したり抗争したりしつつ、さらにはお互いの傷口をなめあう形を通し、何がなんでもしつけの一貫性をむしり取らなければならないのです。

えひめこどもの城はこどもの遊び場だけでなく、わたしたち大人の変身の場としても用意されているのです。すなわちここでわたしたちは子どもを好ましく発達変化させるためには、まず自分自身が先に変身しなければならないことを学ぶわけです。

平成11年10月1日

2.立役者(主人公) ~すっぽんぽんのすっ裸~〈じゃぶじゃぶ水路〉

「じゃぶじゃぶ水路は、プールではありません」。一見、意味深長な掲示文を尻目にすっぽんぽん姿の子らの歓声が上がります。水着持参かどうかなどは無関係に、ついついそうなってしまう自然性こそがすべての子の真実の姿です。キラキラと輝く目と子供からの動きを最優先しようとする、上記「プールではない」との掲示文に見入りながら、その弾力的運用の妙に思わず拍手を送りたくなります。

そこへ2歳くらいの男の子が家族といっしょに来ました。「うわぁ、すごい混み具合だなあ。でもいいから遊んでおいで」と両親がわが子の背中を押します。酷暑のみぎり水を得た魚とはこの子どもたちの様態を指すのでしょう。ここでは初対面の友とも百年来の知己です。みるみるうちに衣服はずぶ濡れになってしまいました。

すると例によって例のごとく裸体美のおひろめとなります。その素直さに引かれてパパも思わず水路に入りました。しかしそのほほえましさはパパが滑って転んだ瞬間に終幕となってしまいました。帰りをどうしょう?とママのお顔が曇ります。やっぱり大人は天真爛漫(らんまん)の絵にはなりにくいようです。

こうした様態を前にしながらふと思い浮かんだ想念に、おとなと子どもの非連続性の問題があります。すなわちそれは、「子どもは大人を小さくしたもの、大人は子どもを大きくしたものでない」ということです。すなわち両者はそれぞれの生きざまの独自性の中で懸命に生きているわけです。昔日よりの名言、子どもは遊びの天才、子どもは遊ぶことが仕事とは、そうした独自性、相違性にひたりきる生活の大切さを端的に表現していると言えるでしょう。

遊び体験の場えひめこどもの城での暮らしの極意は、立役者(子ども)が遊びに没入し裏方(大人)の援助が1歩遅れるところにあります。そのためにもわたしたちは、子どもの行動をまず見つめる、すなわち待つことに徹するべきであります。その意味で掲示文の終末部分「決してお子さまから、目をはなさないで」は、ぴったりくっついてぴったり離れる、つかず離れずの子育ての哲理として、たいへん重い意味も持つわけであります。

平成13年8月1日

3.人そのもの ~おばあちゃんになりたい~〈冒険の丘〉

冒険の丘には、頂上部を一周する自走式モノレールがあります。2人で仲良くペダルを踏んでいると前後の車上からも、うわー、絶景との歓声が響きます。寒風の中で落葉が吹雪のように舞い散ります。目をこうした光景から瀬戸内に転じた瞬間、次の一文を思い出しました。

「有能な船頭が櫓を漕ぐ時は、けっして船の舳先(へさき)だけを見ているのではない。遠くの山もみている」。なぜこんな所でこんな想念が浮かぶのでしょうか。周囲の展望のみごとさにも助けられて、船頭さんは近景だけでなく常に遠景をも見つめておられる、その名人気質にあらためて深い憧憬を覚えた次第です。続いて某銀行の掲示板で、次の1文を眺めました。

「恋し、結婚し、母になった。この街でおばあちゃんになりたい」

この文章が何のためにここに掲示されているかは知りません。ただ行間に作者自身の遠景(人そのもの)が、底抜けに明るくそして赤裸々に語られているだけに、読み手は思わず引き込まれてしまうわけです。ここでのこの街とは心底から愛する故郷のことですが、真実こうした心の安全基地を、遠くの山も見ている形で肯定的に表明できる人は幸福です。一方これとは異なるふるさと否定の代表歌には、室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの・・・」があげられるでしょう。

ところで人はふるさとの肯定、否定派のいずれであろうとも、それはそれでよいことなのです。しかしながらこの街でおばあちゃんになりたいと切望しながら生涯にわたる全生活をかけて、その人なりの遠景(人そのもの)をどれほど豊かに創出できたかは大問題です。思えば現代の教育は、知育と人間形成の合一をめざしながらも、目の前の近景(知識や技能)陶治のみに追い立てられて、それを駆除する遠景(人そのもの)がなかなかに育たない現実に苦悩しているのです。

えひめこどもの城の山川草木は、こうした学校教育における近景と遠景の乖(かい)離性を、幼児期からの遊び体験を通じて執拗に自問自答するために用意されているのです。前掲名歌への語(ご)ろ合わせを1句、恥ずかしさを忘れて掲載させていただきます。「遊んで、ころんで、泣いた。この城でケンカもしてみたい。」あくまでも人間理解の基本的立場は、「できる・できない」よりも「たくましく生き抜く力」にこそ置かれるべきです。

平成11年2月1日

4.意味の共有 ~袖(そで)すり合うも・・・~〈多目的ホール〉

「みんないっしょにピーカーブー」の時刻です。鳴りはじめた音楽に合わせて、常連のママと子ども(そうでない人)たちが三三五五と集まってきます。この集いの特色は次のようになりますが、とりわけ子どもの側からの自発性の発動が最重要課題となります。

  • メンバーが固定していない(自由・自主性)
  • 異年齢構成による集団である(世代間交流)
  • 笑いを通しての感情交流が豊富である(笑顔・明るさ)
  • コミュニケーションが成立しやすい(気持ち・意味の共有)

それぞれの項目はそれぞれに、子どもの発達にとって重要不可欠のものであります。中でも笑顔・明るさ「親が笑うと子どもが笑う。子どもが笑うと親は幸せな気分になる。そしてさらに子どもにかかわろうとする」は、この上なくヒトとヒトとの関係のあり方を促進します。これは目と目を見つめ合っての、ほほ笑みの交換であるとも理解できるでしょう。

ところでこの集いでの強力な味方の1つは、バルーンと呼ばれるモノです。これは落下傘などに使われる薄布地で、みんなでいっしょに振ると波のように揺れます。その上を歩いたり走ったりしながらどの子も水中散歩の感覚を楽しんでいます。しかしそれでも子どもの目が最も輝くのは、一つ屋根同様のバルーンの下に潜りこんだ時です。ここでは瞬時にして、ママもわたしもそしてお友だちも一つ屋根の家族になってしまうのです。

人間同士の見つめ合いの中で、なぜバルーンがこれほどまでに魅力を持つのでしょうか。それへの回答は次のような単純明快な根拠にあるのでしょう。すなわち子どもたちはヒトとの関係以前に、バルーンというモノを介在させながら気持ちをつながり合わせているわけです。そしてそれへの喜びが一人ひとりの目の輝きとなって発露されているのです。

ゆえにここでわたしたちが最も心すべき留意点は、子どもたちの生活の中でのヒトとの関係以前に、モノとの関係をどれほど豊かに確保してあげるかにかかるわけです。体験学習の場としてのえひめこどもの城での遊び、生活、暮らしの大半は、ここに存在するモノや自然との関係のつけ方を学ぶためにあることを忘れないで欲しいものです。

平成15年2月1日

5.バリアフリー ~あたりまえのこと~〈モノレール〉

てっぺんとりでの展望台は標高・約170メートルの山頂にあります。ここは駐車場とモノレールやスロープで結ばれ車椅子、ベビーカーでの登頂が可能です。きょうもスニーカーとリュックで身をかためた2歳男児と弟(乳母車の中)が、一家団欒の体で登ってきました。最近のバリアフリー意識からすれば、この風景はしごく当然のことでしょう。某テレビ局も同じ見地からしまなみ海道、車椅子ラリーを放映していました。現代の機械文明は「乳母車、空に昇る」「車椅子、海を跳ぶ」との壮挙を、文字通りあたりまえのこととして実現しているわけです

しかし人類は長い長い間、わずか3センチの落差が胸突き八丁の障壁となる現実を前にしつつも、それがあたりまえのことであると切歯扼腕(せっしやくわん)の思いの中で、諦め続けて参りました。今日においても車椅子が通れない道路や階段トイレは際限なく存在することも事実です。しかしようやく最近、強者と弱者共存社会への認識が浸透するにつれて、公共施設のバリアフリー化が国家的施策としても本格的に検討され始めました。

このことは世界でも類例を見ないわが国の高齢化社会の現状から考えても、しごく当然の課題となるにちがいありません。今後の進展状況を自分自身の問題として冷静に見つめていかなければなりません。

ところでバリアフリー最大の難敵は道路や階段などの施設・設備面(ハード)ではなく、人の心や文化的側面(ソフト)にあることを忘れてはなりません。言い換えると人の心が、あたりまえのことをあたりまえとして正しく認知できるかどうかで、その正否は決定されてしまうわけです。それゆえに現代社会の教育的課題は、子どもたちの胸中にあたりまえのことに対する正当な感性をどう育てるかにかかってくるわけです。ここでは百万言の言語的指示よりも、たった1回の生身の体験がより有効であることは言うまでもありません。

かつて北原白秋は、「バラの木にバラの花咲く、なにごとの不思議なれど」と詠い、バラの木がもつあたりまえのことに感動の涙がとめどなく流れ出たと述懐しています。こうした白秋のするどい感性を求めて、今、えひめこどもの城でわたしどもに課せられている仕事とはいったい何なのでしょうか?それは無言のしじまに身をまかせながら、自然界の森羅万象が表出するあたりまえのことと、ただ、ただ向き合うことに他ならないと思います。

平成15年8月1日

6.不易と流行 ~心を育てる~ 〈パソコンコーナー〉

今、人類は地球の温暖化傾向、自然破壊の現実の中から、ようやく自然との共生を模索しはじめました。そんな時節、本園は四季折々の若葉と青葉、落葉混合の「樹木空間」に恵まれております。これは貴重な財産です。森の迷路での今様の癒しの匂いは、古里の山野と全く同じです。ここでの幼少時期、ガキ大将仲間からいただいた野生児体験は、今もってわたしの命(たくましく、生き抜く力)の源泉であります。ありがたいことです。

ところで児童館にはまわりの自然界の風景とはいささか異なる、パソコンが約20台設置されています。この近代機器を前にする子どもの後ろ姿に見入りながら、4歳児にしてこんなことができるとばかり、老兵はただ感嘆の声を発するのみです。しかし最近の情報化社会の足音からすれば、これはしごく当然のことであります。

けれども一方では、パソコンコーナーでの1母親のつぶやきに鮮烈な印象を覚えるのも、いつわりのないわたしの実感です。「せっかくここまで遊びにきたのに、何で、またパソコン?」。まぎれもなくこどもの城は遊ぶところ、蒼白い座学への挑戦の場、経験・体験学習の道場なのです。それだけにここでは、豊富な遊び体験の集積に全神経を投入していただきたいものです。その意味でママのことばは千金の重みを持っています。

今世紀における学校教育現場は、IT(情報技術)の進歩、流行の中で、人間的感性をも消失しかねない危惧と隣あわせです。パソコンでうまくグラフは描けるが、その描いたグラフの意味が理解できない子が、情報処理教育の美名の下で、数多く輩出されかねないのが冷徹な現実なのです。まぎれもなく今の教育界は、人そのもの、心をどう育てるかの具体的方策をめぐって、苦慮、憔悴しきっていることを忘れてはなりません。

昔日からの格言「不易と流行」は、今後、機器力は際限なく進歩(流行)するけれども、その機器力を駆使するのは永遠(不易)に人間であるとの指摘なのです。そのためにも、今の子育てや教育の最大課題は、人そのもの、心を育てる(不易部分)の見きわめにありと、声を大にして断言したいのです。えひめこどもの城はそれへの活路を、「為すことによって学ぶ」経験学習の具体に賭けようとしているのです。

平成14年6月1日