母親は子どもからの信号を受けとめながら、せっせと子どもの世話をします。すると子どもは母親やまわりの人が自分をどのように扱ってくれるかを鋭敏に察知します。こうした愛着関係が親子の絆なのですが、これは授乳したり抱いたり話かけたりする、具体的な行動を通しての絶対的な信頼感のことです。ここをどのように形成するかが、子育ての原点となります。
えひめこどもの城にみる親子共生の風景
親子の絆
1.そったく同時 ~トコトン一緒~〈相談コーナー〉
玉ころがしに没頭している2歳児にむかって、わたしが「 ありゃーん、ありゃーん、かたかた」と語りかけていきます。はじめは不審顔だった子どもも、やがて「アリャーン、アリャーン、カタカタ」と、私の声に唱和し始めてくれます。もっともらしく言えば両者間に気持ち、意味の共有が成立しはじめたわけです。当然、わたしはわたしで「しめしめ○○も、捨てたのもではない」と悦に入ります。後ろにママの笑顔がこぼれます。すると不思議なことに、子どもの気持ちといっしょに、ママの気持ちも見えてくるのです。
ところで、魯鈍なわたしの教育実践・研究も、いつしか50年の馬齢を重ねてしまいました。今やっとこさ、しかも青息吐息の形で、子育てや教育を理念で語ることはできても、そのこと自体は非力そのものである。理論や理屈はあるにこしたことはないが、無くても子育ては立派にできるとの原理にたどりついたのです。するとむしょうに、素っ裸のスッポンポンになって、今一度、子どもといっしょに呼吸をしてみたくなりました。
そんな時えひめこどもの城が開園されました。そして児童健全育成活動の一環として児童館の中に「相談コーナー」が設置されたわけです。その趣意は、建物や施設(ハード面)が具備する諸機能を万全の形で発揮するためには、同時平行的に、それを駆使する人間の気くばり(ソフト面)が絶対不可欠であることに着目したところにあります。
もとよりここは診断、指導、教育機関ではございません。しかしお出になられたすべての人が目を輝かせて来てよかった、希望がわいてきた、また来ようと思っていただくところでなければなりません。それゆえに子育てに関する内容とは、子どもの側だけに限定されない関与者全体にかかわる問題となります。換言するとこれは、「ヒトとヒトとの関係のあり方」を再構築することであるとも言えるでしょう。
そのためにはわたし自身も、今までの体験とか知識をかなぐり捨てた無の境地、愚直に撤しきれるように自分自身を変える覚悟をしなければなりません。新設間もないここえひめこどもの城の中で、こうした大願望がほんとうに形あるものとして具現できますかどうか。いずれ、ご覧になって下さいますよう心からお待ちいたしております。
平成11年6月1日
2.親の背中 ~真の学習とは~〈森の迷路〉
今年「森の迷路」で、ウグイスの鳴き声に出合ったのは、確か啓蟄(けいちつ)の頃でした。以後、ひなドリの声が親ドリのそれに次第に近づくさまに、興味深々と耳をそばだててきました。一般的にウグイスの鳴き方はその個体が住む谷によって、それぞれ異なるとされています。すなわちお手本の違いによって、子子孫孫(ししそんそん)に受けつがれる鳴き声は、異なってくるわけです。このことはもっともらしく言えば、「環境優位説」とでもなるのでしょうか。
幸運にも一昨年は、数日の間に長野、島根、徳島でウグイスの声を聞きました。気のせいかその鳴き方には、方言のような違いがあるように感じられました。しかし松山側と砥部側の谷での違いは、私の耳では弁別不可能でした。
もともと当園(敷地面積34.6ha)のウグイスたちは、こどもの城一家としてのお手本が同じであるか、または類似しているからでしょう。ともかく最初はケキョともならなかったひなドリの鳴き声は、日増しに親ドリのホー、ホケキョに近づくのです。その懸命の学習過程は、まさに注目に価すると言えるでしょう。
ところで、従前の学習理論の多くは、「親ドリに近づく努力や責任のすべては、ひなドリの側にある」と断定したのに対し、最近の考え方では、教える教えられる側相互の「力動関係」と掌握するところに、大きな違いがあるのではないでしょうか。もしかすると、鳴かせじょうずの親ドリは、わたしどもの気づかないところで、ひなドリの鳴き方に合わせて、自分自身を変えているのかも知れません。こうした親子の生きざまは今日的な言い方をしますと、おそらく共存、共感、共学、共生とでもなるのでしょう。
子どもを変えたいと念ずるなら、まず親がかわらなければならないことは、未来永劫(ごう)にわたる真理であります。そしてそうした相互関係的な自己変容が最も苦手なのは、わが子のテストの成績は常に子どもだけの責任であると考える人間さまなのです。こどもの城での経験至上主義の思想は、親がイキイキと目を輝かせない限り子どもの目は絶対に輝かないことを、厳しく告発していることを忘れてはなりません。
平成12年6月1日
3.同行共育(教育) ~山路越え~〈てっぺんとりで〉
「てっぺんとりで」への坂道をわたしはあえぎあえぎ登っておりました。目の前を3年生の女児を背負ったママが元気はつらつの態でかけ登って行きます。その後をゆっくりパパが追いますが、その姿は足を引きずりだいぶお疲れの様子です。
それでも5年生くらいの姉が、猫なで声で 「パパおんぶして」とねだります。一瞬、パパの顔は曇りましたが、けなげにもそれを笑顔に変えてしぶしぶ背中を差し出しました。そこへガバッと姉は飛び乗りました。家族の中でいちばん長い足はなお地上に届いたままです。ママの背中でご満悦の妹が、大声で3人に話しかけました。
「もう・・・。あとは、産まれてこなければいいのにね。」「どうして」「だって背中が1つ足りなくなるもん。」まさに至言とはこのことです。これ以上の同胞数になりますと、両親の背中が定員オーバーになってしまうわけです。わたしは楽しくなって思わずニヤリとしました。パパの背中に1人ママの背中に1人、この仲良しの4人家族が発散するあたたかい雰囲気は、百方言にもまさる家族愛の深さを物語ると感じたわけです。
ここには生活に根づく生きたコトバが、いきいきと飛びかっています。この場合のコトバとは、国語(日本語)の音韻・文法構造に、必ずしも合致するものではありません。しかしこうしたノンバーバルな表情とか身振り、目つきなどは、重要不可欠な伝達法に他ならないのです。コミュニケーションとは「意味・気持ち・心」いわゆる内実の伝え合いにあります。そしてその根底には、人と人との関係のあり方が、厳然とした形で横たわっております。にもかかわらず現代社会では、教科書通りにことばにさえ置きかえておけばわかったはずであると安心しきる言語生活が、日常的にあまりにも多過ぎはしないでしょうか。
社会全体にはびこる美辞麗句は物の豊かさの中での人と人との関係、心の希薄さに直結する場合が多いことは確かです。それだけに現代教育に課せられた心の教育の起死回生策は、てっぺんとりでへの坂道の「山路越え」、言いかえると「同行教育」の中に横たわることを直視すべきです。これは共に感じ響く、人間的絆(きずな)の確かめ合いなのです。このことを身体ごと確信するために、えひめこどもの城は存在するのです。
平成12年8月1日
4.自立(自律) ~親切、不親切~〈ふれあいの池〉
ボート遊びで人気絶頂の通谷池が改修工事に入っている時のことです。おかげで池は空っぽでした。通谷池の主の「大鯉」はその巨体を、全く異なる環境である「ふれあいの池」で休めていました。わたしはその雄姿にほれこみながら、毎日きまった時刻にせっせと通いつづけました。お笑いください。ここでの興味深い事柄に次のようなことがあります。
それは「親切に育てられた」人工フ化の鯉と「不親切に育てられた」野性の鯉では、餌(えさ)の食べ方が異なっているということです。前者は与えられた餌をパクパクとおいしそうに食べ、後者はわれ関せずの知らんプリなのです。すなわち野性の鯉は労せずに人間に与えられる餌のうま味を、いまだに知らないわけであります。
こうして両者による反応の違いが3ヶ月あまり続いていました。すると不思議なことにわたしはいつの間にか、餌を積極的に食べる人工群を「アア、カワイイ」といとおしく思い、食べない野性群を「フン、スナオデナイ」と決めつけるようになってしまいました。ひるがえってここで問題視したいことは、こうした気持ちの通じ合いは鯉だけに限らず子どもからの反応様態によって、養育者の育児態度もがらりと変わるということです。
最近、国家レベルでの少子化対策がにわかに浮上してきました。少なく産んで手厚く育てるとの育児願望は、手厚くとの大義の下でモヤシのように脆弱(ぜいじゃく)で、指示されないと何もできない子どもを大量に産出し始めました。こうした状況は「やさしくやさしく」「かゆいところに手がとどく」育児法だけが、絶対・唯一のものではないこと。並びに子どもとの日々のかかわりの中で、「親切と不親切」心を緩急自在に、使い分けることの大切さを提起していると考えるべきではないでしょうか。その分岐点は母子分離「自律への旅立ち」としての、3歳児期に横たわっていることに留意すべきです。
ともあれ3歳児期までは抱きしめて、3歳時からは突き放して、子どもから積極的に養育者へかかわらせることが肝要なのです。厳しい自然環境の下で30余年間、たくましく生き続けた大鯉の生命力は、人間発達にとって不親切こそが本当の親切との哲理を突きつけているわけです。このことに当園はどのような答案を用意すべきなのでしょうか。
平成12年4月1日
5.親子関係 ~乗り越えられる~〈卓球コーナー〉
5年生男児とお母さんが仲良く卓球をしております。ラリーの様子からお互いの腕前は、相当なものであることがすぐ判りました。ところがゲームの途中からお母さんの表情が次第に険しくなってきました。プロテニス界の女王さながらの形相で、相手の弱点をねらいつつ全神経を集中して球を打ち始めたのです。そばから眺めているわたしにもその真剣さがひしひしと伝わってきます。しかしどう見ても、お母さんには利がなさそうです。
無理もありません。幼い頃「カワイカッタ」わが子の体力はすでに親を乗り越えているのです。いや身体だけではありません。教科書の理解力でもお母さんには少し無理な面も出始めています。しかし教えられない、負けることをここで非難するつもりは毛頭ございません。むしろ自立への旅立ちの証拠として、このことは拍手喝采すべきことなのです。ことわるまでもなく多くの親は子どもに乗り越えられることを待ちわびつつ、それを生きがいにしてせっせと子育てに精を出しているのです。
ところで以前から目立ちはじめた若者の暴走ぶりは、今も天井しらずの増加を続けております。識者間では普通の少年、良い子が危険、原因不明、突発的事件などのキーワードがしばしば多用されます。しかし絶対的な決め手となる対処策は全く不明なのです。ただ個人的にはそれぞれの乳幼児期における暮らしぶりが、今あらためて再検討されるべきだと石のごとく思いこんでいる次第です。それは2歳児期までの母子一体の絶対的信頼感から、3歳児期以後の母子分離、自立への旅立ちを中心とする子ども自身の「たくましく、生きぬく力」の問題とでもいえるでしょうか。
前述のお母さんは身体ごとの遊びを通しながら、親にとっての子どもの存在を見事に把握されようとしています。誠に結構なことですがこの背景には、幼児期からの健全な親子関係が広がっていることを忘れてはなりません。
えひめこどもの城の奥座敷には「ふれあいの森」があります。ここの険しい坂道で、共に枯葉を踏みしめるいい汗いい顔は、2、3歳児期での親の過干渉を激しく告発しているように感じられます。こうした思いの真偽を卓球試合の母子同様に、ぜひともこの森で検証していただきたいものであります。
平成12年12月1日
6.自己教育力 ~ただひたすらに~〈パソコンコーナー〉
今年はジョロウグモの繁殖がかくべつに多いようです。あちこちに張りめぐらされた巣が、朝露を乗せてきらきらと輝いています。巣の中央に陣取るメスの体形はたぶんオスの3倍もあるでしょう。腹部は黄色と赤色、灰青色。足部は黄色と黒色でその模様は毒々しいまでに鮮明です。糸つぼから出る糸は6種類もあり、それぞれに異なる機能をもっているとされます。
目が8つのグロテスクな顔と姿態は昼夜の風雨にも動じず、時には鋭い牙と口でオスを食べてしまうメスの猛々しさは、どう考えても好印象を持てません。それでもわたしはわずか半年のはかない命の蜘蛛(くも)に、或る1つの想念を重ねてしまうのです。それは待つ心とでも表現できるものでしょうか。全神経を集中しながら獲物の方から飛び込んで来るのを、不動の姿勢で、ただひたすらに待ち続けるわけです。
ところで日常の子育てにおける親や教師は、子どもにすべての事柄を教え得ないことは自明の真理です。だとすると、大人が教え得なかった取りこぼし部分は、子ども自身が自分の力で補うところに、学習の深層が秘められているわけです。これは「自己教育力」とも呼ばれますが、子育てや教育の究極的なねらいもこの力を子どもの内面にどう育て得るかにかかっているわけです。そのために関与者には子どもを信じ、ただひたすらに待つことがきびしい戒律として課せられます。
しかし現代社会では教えることに短兵急で、待てない大人があまりにも多すぎはしないでしょうか。結果的に指示待ちの子が、教育熱心との美名の下で数多く産出されていることを見落としてはなりません。
今、確認すべき子育ての原点は、まず子どもの動きが一歩先行し大人の動きが一歩遅れるところにあります。これは指示したい、教えこみたいと気おい立つ心を静めながら、子どもからの働きかけをただ待つことなのです。しかしながら蜘蛛たちの待つ心は、ただボンヤリと待つのではありません。全身の毛で音を聞きにおいを嗅ぎわけ、周囲からの情報を懸命に収集し分析しているのです。遊びの場こどもの城での子どもへの接し方は、まさに蜘蛛をお師匠さんと敬する、待つことの学びの中にあるわけです。
平成14年12月1日