えひめこどもの城にみる親子共生の風景

はじめに

少し話が飛躍しますが、聴覚障害児への伝統的言語指導法の1つに6柱法「5W1H」があります。これは6つの疑問詞に対応させながら、文や文章を分析的に反復練習させるものです。そしてこの方法は聴覚障害児の文型、文法、語序、日記、会話指導にきわめて有効であることが、世界各国の実践家によって支持されています。とりわけ[どれほど、どのように]の疑問詞への対応能力は、この教育における名詞レベル「9、10歳児期の壁」論議とも、深い関係があることは衆目の認めるところです。しかしよく考えてみますと、これはすべての子どもたちが2、3歳児期から9、10歳児期にかけて通過する、具体的思考から抽象的思考への質的転換期にあたるわけです。

このこととの関連で、わたしはえひめこどもの城での暮らしの焦点は、6柱法を通しての「モノとヒト」とのかかわりの追求にあると断言したいと思います。これは平易なことばで表現いたしますと、自らの興味や関心のおもむくままに園内を散策しつつ、6柱法による疑問詞への自問自答(思考)を、何百・何千回にわたってくり返すことです。もちろんこれは文字とか数量のお勉強ではありません。また何かを記憶したり、何かに関する技能を高めようとするものでもありません。後にも先にもいきいきと目を輝かして、遊びの中に浸りきることがすべてなのです。ここを万全の形でしっかり耕しておかないと、その後の発達は大きくつまずくことになってしまいます。

最近のエピソードの1つを紹介いたしましょう。

今年もお正月の園内ではおもちつきやこままわし、羽根つきなどの伝統的な遊びがにぎやかに展開されていました。芝生広場での凧あげもその1つです。空はどこまでも澄みきっていますが、風向きは凧あげには不向きでした。おかげで空中に伸びた凧糸が樹木にひっかかり、それをはずすのに一苦労です。例年わたしはその凧糸はずしのお手伝いをしていますが、やっとはずせた凧を手にした3歳児さんから、「おじいさん、ありがとう」と声をかけてもらえることは、うれしさのきわみです。いくつになっても、人はほめられるとルンルン気分になります。するとまわりの人のお顔も輝いて見えます。至福の刻とは、こんな時を言うのでしょう。

ところが次の凧には、長い竿を持って、いくら頑張っても届かないのです。そればかりか竿の重みで身体全体がふらつき、今にもぶっ倒れそうになります。それを見かねたのでしょうか?背後から小2男児の罵(ば)声が飛んできました。「おいさん、何もたもたしてるんや!早くやらんかえ!」。まさに背負った子に叱られるの図です。

最近、人の気持ちが理解できない子が増えていることは実感していますが、正直なところわたしの胸も騒がないではありません。けれどもここで、「今のことば遣いはいけません。いい直しなさい」とか、「親の顔をみてみたい」との義憤は全く非力なことは経験ずみです。残念ながら本児も8ヶ年の全生活史をかけて、「モノとヒト」とのかかわり体験を欠落しつづけてきたのです。ですから不幸にも、両者の違いが認識できないわけです。こうした乳幼児期からの発達上のひずみは、後日、いくら強制的に直そうとしてみても、その改善は容易なことではありません。しかしだからと言って投げ出してしまってはならないのです。

この男児の場合にも石にかじりつく思いの中で、両者の違いをはっきりと確認させるべきです。ただしここでの生活体験学習の意味は、子どもの力のみでは体得できないことも多いのです。特に乳幼児期では、つかず離れずの形での援助者の存在が不可欠です。しかし援助とは、指導でも放任でもありません。それは子どもといっしょに遊び体験を共有する中で、先述の自問自答をただ遮二無二くり広げることなのです。

この度の内容は、平成11年4月より現在にわたり、本園内でのおりおりの所感を綴ったものです。今、あらためて全体を読み通してみますと、みずからの思想と説得力の乏しさを思い知らされるところです。慙愧(ざんき)にたえません。しかしそれでも園内に立ちすくんでの、わたしなりの6柱法の実践であることにかわりはありません。

ご笑覧いただき、意のありますところをお汲み取りいただけますなら、ほんとうにありがたいことだと存じます。